蒋介石
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この党大会では国民政府の樹立が目標とされるとともに、その手段として「連ソ・容共・扶助工農」があらためて打ち出され[45]ソ連共産党の組織原理に基づいて、組織の改組が正式に実行された。党内には委員会制と民主集中制が導入され、中央執行委員会が最高意思決定機関として設置された。孫文が国民党総理として、存命中は自動的に中央執行委員会の長となることが保障されたが、その他の委員は選挙で選ばれることになった[46]。この第1期党中央執行委員会には国共合作によって共産党員も選出されており、後に中国共産党中央委員会主席中華人民共和国主席となり、?介石の終生のライバルとなる毛沢東も共産党籍を持ったまま国民党中央執行委員候補に選ばれている。一方、?介石は党大会に出席したものの、中央執行委員には選出されなかった。しかし、この党大会で国民党による政治指導を受けた革命軍すなわち国民党の党軍の組織と、その将校の教育機関である軍官学校の設立が決議され、?介石が軍官学校設立準備委員会委員長および陸軍軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長に任命された。

?介石はさっそく軍官学校の設立準備に取り掛かったが、設立資金の不足と党内事情に対する不満から二週間ほどで辞表を出し、廖仲トに軍官学校の設立事業を託してまたもや上海に戻った。孫文もさすがに怒ったが再三にわたり?に復帰を要請し、?も結局これを受け入れた。この繰り返される辞職騒動は、?介石の「人的関係についての異常な鋭敏さ、事物に対する極端な好悪」、「すべてが軍隊のように、きちんとしていなければ承知できなかった」性格が大きく影響しているものとみられる[47]

孫文による?への黄埔軍官学校校長任命状

黄埔軍官学校入学式後の国民党要人の記念撮影。
中央の椅子に腰掛ける人物が孫文、その後に?介石。?と並ぶのは教官の何応欽(左)と王柏齢(右)。

黄埔軍官学校校長時代

紆余曲折はあったものの、1924年5月3日、?介石は広州に設立された黄埔軍官学校の校長に就任し、6月10日に入学式を迎えた。?介石は新入生に対して三民主義に命をかける幹部の養成、軍の規律を説く講話を行った。黄埔軍官学校では、組織や訓練面ではソ連式が採用されたが、日常的な軍隊生活の規律は?介石の東京振武学校や新潟での日本陸軍第13師団での体験が基礎となっていた[48]。また、清朝末期の改革派大官で?介石が尊敬する曽国藩が説いた儒学的人生訓・処世訓も教育に反映されていた[49]。?介石は将校の教育に熱心に取り組む一方で兵士の養成にも力を注いだ。特に自分の出身地である浙江省を中心に兵士を募集していった。黄埔軍官学校で学んだ将校や兵士たちは後の北伐軍、中華民国軍の中核をなしていく。科挙時代の中国では自分が合格した試験の監督を生涯にわたって師匠と仰ぐ習慣があったが、黄埔軍官学校の卒業生もまた校長である?介石を特別な存在として仰いだ[50]。彼らとの師弟関係は、この後?介石にとって大きな政治的資源となっていくのである[48]

黄埔軍官学校はソ連の支援の下につくられたため、共産党員も教官となった。後に西安事件で監禁された?介石を説得して第二次国共合作を成立させ、中華人民共和国の建国後に国務院総理(首相)となった周恩来が政治部副主任(後、主任に昇格)に、中華人民共和国元帥となった葉剣英が教授部副主任に任命された[51]。黄埔軍官学校、正式名称を中国国民党陸軍軍官学校というこの士官学校では、国民党総理の孫文が唱える三民主義と同時にマルクス主義も教えられていたのである。この頃国民党内部では、共産党との合作を第一義に考える左派と共産党との対立姿勢を隠さない右派に分かれて対立が生じ始めていた。左派の代表格は汪兆銘であったが、右派の領袖として?介石が擬せられるようになっていった。黄埔軍官学校の校長として?介石は共産党員の教官とともに軍人の養成に当たらねばならない立場にあったが、黄埔軍官学校内部でも国民党と共産党の対立が芽生えていく。

1924年8月から10月にかけて商団事件が勃発した。これは孫文の広東政府が「赤化」したとして危機感を覚えたイギリスなどが、広東にあるイギリス系銀行の代表者である陳廉伯に働きかけ、商人団に武装させて広東政府の転覆を図ったものである。陳炯明の残党と手を結んだ商人団が武装蜂起するや、孫文は?介石に鎮圧を命じた。?介石は黄埔軍官学校の学生を中核とする国民党軍を直接率いて事件を鎮圧した。

商団事件の最中の9月、北京では第二次奉直戦争が発生し、これを契機と捉えた孫文は「北伐宣言」を発した。ところが、商団事件により出陣準備に手間取っていたため、第二次奉直戦争は収束した。しかし、北京政府の実権を握った馮玉祥張作霖から善後策を協議したいとの招請を受け、孫文は北上することになった[52]。孫文はこの時、商人団の反乱など広東でのクーデターを危惧する側近に対し、「大丈夫だ。広東には腹心の?介石がいるから」と語ったという[53]11月12日に広東を船で出発した孫文は、北京への途上黄埔軍官学校を訪れ、?介石と面会した。孫文は?介石が短期間に黄埔軍官学校を充実させ、軍の育成が進んでいることを高く評価した。その上で今回の北上では広東に戻れないことを覚悟しているとも語った。?介石が「何故そのように弱気になっているのですか」と訝り尋ねると、孫文は「私の説いた三民主義は、この学校の学生たちに実行してもらいたい。私は死に場所を得ればそれでいい。黄埔軍官学校の教育を見て、彼らにこそ私の命を継いでもらいたいと思った」と語ったという[54]。孫文はこの後、香港・上海へと渡り、日本を経由して北京に入った。このときが?介石と孫文の今生の別れとなった。
権力の掌握

1925年に入ると、陳炯明軍が勢力を挽回して軍事行動を活発化させるようになり、?介石はこれに対峙することになった。2月、陳炯明軍が広東に侵攻すると、?介石は国民党軍に出動命令を出し、北路・中路・南路の三軍に分かれて陳炯明軍の本拠地である東江に攻撃を開始した。いわゆる第一次東征である。東征軍は陳炯明軍を撃破していったが、なかでも黄埔軍官学校の出身者が中核を占める南路軍の活躍は目覚しく、黄埔軍官学校総教官の何応欽率いる第一教導団、教授部主任の王柏齢率いる第二教導団は、陳炯明軍を追い詰めていった。3月7日には広東省の大部分を制圧することに成功、陳炯明は香港へ逃亡した。この第一次東征で黄埔軍官学校の学生部隊が活躍したことに感銘した?介石は、北京に滞在している孫文の体調悪化を知らせてきた胡漢民に対して、学生たちの精神力を評価し、自己の教育の成果に喜ぶ内容の電報を送っている[55]。しかし、その喜びも束の間、1925年3月12日、孫文は北京において病没した。?介石が孫文死去の知らせを受け取ったのは3月21日、軍を率いて駐屯していた広東省興寧においてであった。?介石はすぐさま学生部隊を招集し、涙ながらに「三民主義による中国統一という孫大元帥の遺志を達成するのが我々に課せられた使命である」と訓示した[56]

孫文は生前の1924年4月に「国民政府建国大綱」を発表し、三民主義と五権憲法(国家権力を立法・行政・司法・監察・人事の五権に分立)に基づく中華民国の建設を軍政・訓政・憲政の三段階に分けて遂行する方針を示していた[57]。これに基づき、1925年7月、国民党は孫文亡き後の軍政府を解体し、国民党中央執行委員会が指導する中華民国国民政府(政権所在地から「広州国民政府」と呼ばれる)を成立させた[58]。国民政府は16人の委員からなる合議制で、政府主席兼軍事委員会主席には辛亥革命以前からの孫文の同志で国民党左派の領袖の汪兆銘が就任し、同じく孫文の側近であった胡漢民が外交部長、廖仲トが財政部長の要職を占め、集団指導体制をとることになった。?介石は国民政府軍事委員会の委員に選出されたが、国民政府の最高指導部である常務委員会に列するほどの地位にはなかった。同年8月、黄埔軍官学校の出身者を基盤とする国民党軍は拡大・再編され、国民革命軍が編制された。編制当初、国民革命軍は五つの軍団で構成され、?介石は第一軍司令官に任命された。

8月20日、容共左派の重鎮で孫文の有力後継者とも目されていた[59]廖仲トが暗殺された。国民党は事件の糾明のため、汪兆銘、許崇智、そして?介石を構成員とする調査委員会を組織した。刺客は逮捕されており、事件の糾明は容易であった。事件の背景として国民党の左傾化を嫌う勢力による左派勢力の粛清計画が浮かび上がったが、問題はその計画に胡漢民の従兄が関わっていたことであった。胡漢民自身がその計画に関与していたかどうかは不明だが、反共右派の代表者である胡には首謀者の嫌疑がかけられ、その政治的立場は極めて危ういものとなった。?介石は、長年の同志であった胡漢民を拘束したうえで、胡にソ連への出国を勧めた。かくして胡漢民はソ連へと去り、失脚した。この事件の余波はさらに続く。?介石は、軍事部長兼広東省長の許崇智に対して事件の責任をとるように要求、許は失脚を余儀なくされた[60]

左派の重鎮である廖仲トは命を落とし、右派の代表である胡漢民、兵権を握る許崇智が政治の表舞台から姿を消した結果、?介石は台頭していく。10月、?介石は第二次東征を行って陳炯明の本拠地である恵州を陥落せしめ、広東省内に残る陳炯明軍の勢力を一掃し、広東の軍事的統一を実現した。この結果、軍事的功績を挙げた?介石の発言力は強まり、国民党・国民政府内に確固たる地位を確保することになった。この時期、国民党・国民政府内では左派と右派の政治闘争が続いていたが、連ソ容共に積極的な汪兆銘と、軍事的功績を挙げ右派の領袖として台頭してきた?介石が二大巨頭として存在し、これをボロディンらソ連の顧問団が支えるという体制となった[59]。翌1926年1月、第2回党大会が開かれ、黄埔軍官学校での教育で左派にも人脈を広げていた?介石は、国民政府主席の汪兆銘に次ぐ得票数で党中央執行委員会常務委員に選出され[61]、党内序列2位となった。2月1日には国民革命軍総監に就任した。

国民党内で確固たる地位を築きつつあった?介石は、孫文の遺志を継ぐべく早期に北伐を開始したいと考えていた。しかしながら、ソ連の軍事顧問団は時期尚早として反対した[62]。さらにソ連は広東国民政府だけでなく北京政府の馮玉祥への援助も並行して行っていた。また、中国共産党も労働者や農民政策の実施の不充分を理由に北伐は時期尚早だと反対した[61]。?介石はソ連の援助の必要性を痛感しており、ソ連との提携を排除したわけではなく(後の北伐も軍事顧問の一人ヴァシーリー・ブリュヘルが担当する)[62]、ソ連や中国共産党の動きをみて、?介石は不信感を募らせていった。ことに国共合作による中国共産党の勢力拡大は?介石にとって看過できるものではなかった。


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