蒋介石
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国民革命軍中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当[2])。浙江省寧波府奉化県出身。日本中華人民共和国では?介石の呼び名で知られているが、中華民国(台湾)では?中正(しょう ちゅうせい)の名称が一般的である。

孫文後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。第二次世界大戦では同国を四大国の一角にさせ、連合国中国戦区最高統帥だった[3]。しかし、戦後の国共内戦毛沢東率いる中国共産党に敗れ、1949年、日中戦争後に接収していた台湾へ移り、1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく同国の国家元首の地位にあった。
名前

原名(幼名)は瑞元、譜名(族譜上の名)は周泰[4]。当初の訓名(中国語版)(学校における名前、学号)は志清であったが、後に中正と改める。介石は[5]英語などでは、「介石」の広東語での発音に基づいてChiang Kai-shek(チアン・カイシェック)と綴られることが多いが、「中正」あるいは「介石」の標準中国語音に基づいて綴られることもある。1914年7月、彼は日本語の別名「石田雄介」を使用した。
年譜

1887年、
浙江省寧波府奉化県(現:寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。

1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。

1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 - 1905年)。

1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。

1907年(明治40年)日本留学東京振武学校)する。

1909年、大日本帝国陸軍に勤務。高田陸軍十三師団の野砲兵第19連隊の士官候補生( - 1911年)

1910年、?経国誕生(1927年、毛福梅は出家、離縁する。1939年12月、日本軍の空襲で奉化県渓口鎮で死去)

1911年 - 1912年辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、中国国民党内右派の代表として頭角を現す。

1916年、戴季陶の子で?緯国を養子にして次男とする。

1923年、孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。

1924年、広州黄埔軍官学校校長に就任。

1926年7月1日、中国国民党が北洋軍閥等に対し北伐を開始。

1927年(民国16年)、宋美齢と結婚。

1927年、上海クーデター中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。

9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談し、北伐中国大陸統一)・対共戦に対する支援の見返りに満州における日本の政治、経済的な権益に関する特殊な地位を考慮すると語った[6]


1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。

1931年、柳条湖事件満州事変が勃発。

1932年、満洲国建国。中国は国際連盟に提訴。

1933年、塘沽停戦協定締結。

1935年3月30日、中華民国特級上将に叙される。

1936年、3月、西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と会談。

12月、西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。


1937年(民国26年)、7月盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める。

12月、日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省重慶へ遷都。12月7日総統?介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦するドイツ製の大型単葉機で南京を脱出した。


1938年、トラウトマン工作の吊り上げにより和平破綻。トラウトマン工作打ち切りで、泥沼化。

1940年、桐工作板垣征四郎と汪兆銘との会談が検討されたが、?は出席せず。

1941年、7月に日本をABCD包囲陣経済封鎖。11月にハルノートが出される。

12月、日本が対英米と戦争状態になることで日米が第二次世界大戦に参戦。?介石は連合国共同宣言に署名し、中華民国が四大国の一員となる。


1942年、アメリカ陸軍ジョセフ・スティルウェルが中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任する。

1943年、繆斌と対日単独講和を検討。

11月、アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトの要請でカイロ会談に参加、四人の警察官構想の一員になる。


1944年、日本陸軍最大の攻勢大陸打通作戦によって?介石の国民党軍が大打撃を受ける。

10月、?介石はアメリカ陸軍スティルウェルを参謀長から解任する。


1945年、抗日戦争(日中戦争)に勝利。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。

1946年、国共内戦に突入する。

1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)

1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て、12月に成都から、息子の経国とともに飛び立ち台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる。

1950年3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去)

1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。

1972年、6月に肺炎にかかり一時重篤な状態になったが持ち直した。しかし、これを期に以後は公の場に姿を現すことはなくなった。

1975年4月5日23時50分、死去。死因は心臓麻痺とも心臓病とも言われる。87歳。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。

2014年、功績を称え、国民党永久総裁に任じられる。

生涯
革命運動との出会いと軍人への道

1887年10月31日浙江省奉化県渓口鎮にて生まれる。父は塩や酒を扱う商人の?肇聡、母は王采玉。母親が教育熱心であったことから、?介石は6歳から私塾や家庭教師に習い、中国の古典を学んでいった。実家は裕福であったが、父は?が9歳のときに亡くなり、以後は母の手によって育てられた。当時の中国の封建的な社会において、母子家庭の暮らしは厳しいものであった。10歳から16歳にかけて生地にあった毛鳳美の塾で学び、1902年には毛鳳美の娘の毛福梅と結婚。1904年からは浙江省に設けられた新制の教育機関である鳳麓学堂で英語や数学を学び、その後寧波の箭金学堂で西洋法律を学んだ[7]

1905年の暮れには生家に戻り、1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍速成学堂の関係者しか振武学校への入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし?介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。


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