蒋介石
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7月28日第一次世界大戦が起きると、?介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した[21]。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、?介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。
帰国と陳其美の死

孫文率いる中華革命党は、秘密裏に中国国内で軍事組織を編成していった。革命軍は四つの軍で編成され、陳其美が東南軍司令官に、居正が東北軍司令官に、胡漢民が西南軍司令官に、于右任が西北軍司令官にそれぞれ任命された。孫文は1914年10月、東京で袁世凱政府打倒の宣言を発した。これに呼応した陳其美は同月、上海での軍事活動に率先して役割を果たすように?介石へ連絡してきた。?は直ちに上海へ赴き、陳とともに反袁活動に従事した。11月10日には「第二革命」のときに反政府活動を弾圧した上海鎮守使の鄭汝成の暗殺に成功。しかし、翌年12月の挙兵には失敗して、フランス租界での潜伏を余儀なくされた。

?介石は上海で知り合った二番目の夫人である姚治誠とフランス租界で潜伏生活を送った。?は酒もたばこも嗜まないストイックな人物とされるが[9]、この時期の?は地下活動にも似た厳しさから酒色に溺れることもあったという[22]。母の王采玉、妻の毛福梅、長男の?経国は渓口鎮の実家におり、?経国は1916年に地元の武嶺学校に進学していたが、毛福梅は仏門に興味を持つようになっていった。また、この時期に?介石は、自身と行動をともにしていた軍人の戴季陶と日本人女性との間に生まれた男子を引き取り、?緯国と名づけ、姚治誠のもとで養育している。

1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。?介石はすぐに山田邸に駆けつけ、遺体をなでながら、体を震わせて泣いた。そして、山田邸に掲げられていた陳其美の筆による「丈夫不怕死 怕在事不成(丈夫は死をおそれず、事の成らざるをおそる)」の言葉を何度も口ずさんだという[22]。葬儀では、陳其美の遺志を継ぐという趣旨の追悼文を読み上げた。陳は生前、孫文に対して「?介石こそが自分の後継者である」と書簡を送っていた。保阪正康は陳の死によって孫文の?介石に対する見方が変わっていったとする[22]

陳其美が暗殺された1916年から、孫文に呼び出される1918年までの?介石の動向は、公式記録上では詳細ではない。しかし、この頃は上海にいて、陳其美が残したルートから青幇と交流を持ち、また証券取引所に出入りするなど、革命資金の調達に奔走していたとされる[23]
雌伏のとき

陳其美の死後まもない1916年6月6日、袁世凱が病没。北京政府では北洋軍閥内部の対立が発生し、各地で軍閥が割拠した。北京政府の実権を掌握したのは安徽派軍閥で国務総理(首相)に就任した段祺瑞であったが、段は中華民国臨時約法を破棄し、旧国会の回復に反対した。孫文は雲南広西軍閥と提携し、段に反対する旧国会議員とともに広州に入り、1917年9月、広東軍政府を樹立して大元帥に就任した[24]。かくして北京政府と広東軍政府の南北対立、いわゆる護法戦争が始まった。しかし、孫文は独自の軍事的基盤が脆弱で、広東軍政府は雲南・広西軍閥の唐継堯陸栄廷らによって左右された。ことに軍政府の軍事総代表となった陸栄廷は地盤の広西に孫文の影響力が拡大するのを恐れ、孫文の追放を図るようになった[25]。孫文は彼ら軍閥への対抗手段として、?介石を自分の膝下に招いたのである。

1918年3月2日、孫文からの電報を受け取った?介石は広東へと向かった。孫文は?を広東軍総参謀部作戦科主任に任命した。?は広東軍第一軍総司令の陳炯明と行動を共にし、孫文の軍事力を支えることとなった。その後、広東軍の一部部隊を率いて出陣し、北京政府軍と交戦した。5月、孫文は唐継堯や陸栄廷との対立に敗れ、上海に引退することになったが[24]、上海への途上で孫文は?と面会した。このとき?は交戦中であったが、?が部下と共に前線で戦い、率先して野砲を撃ち、照準を合わせたところへ的確に命中させていくのを見て、孫文は?介石の軍事的才能を評価した[26]。?介石は孫文が失脚したことを受けて7月に一度職を辞したが、陳炯明の度重なる招請によって、9月には復職した。参謀部勤務は1919年7月まで続いた。この間1918年9月から11月までは前線で北京政府軍との戦いを直接指揮したが、?介石の指揮や統率は広東軍にも北京政府軍にも注目された[26]。ただし、「有能な参謀。作戦立案に優れ、兵を率いて先頭で戦う軍人」としての評価を得たものの、それほど全国に名を知られたわけでなかった[27]。なお、1919年10月10日に中華革命党は中国国民党に改組しており、?介石もその党員になっている。

?介石は陳炯明の下で働き、将兵への教育を施した。しかし、孫文の思想を兵に語ろうとする?とそれを許さない陳との間で齟齬が生まれ、?は陳に不信感を抱くようになった。結局、?は陳の下を去り、上海に戻った。そして同じく上海にいた孫文の下に出入りをする一方、証券取引所で資金の調達に勤しむ生活へと戻ったのである。

1920年、上海に在った孫文は陳炯明に命じて権力奪還を図った。9月、陳炯明率いる広東軍は広州へ進攻した。しかし、雲南派、広西派の軍隊に苦戦し、予定よりも広州制圧が遅れた。そこで?介石が陳炯明の下に派遣された。?介石はすぐさま作戦を練り上げ、自ら陣頭指揮に当たった。10月26日、広東軍は広州を制圧。孫文は11月に広州へ帰還し、第二次広東軍政府を樹立して再び大元帥に就任した[28]。?介石はしばらく陳炯明の下にいたが、陳が軍事戦略を独断で決めるようになり、さらには広東軍政府の他の部隊を軍事的に牽制するようになると、陳への不信感が増大し、ついには上海に去って孫文に陳に対する不信感を訴えると共に、実家の奉化県渓口鎮に戻った。この時期、胡漢民に書き送った手紙には、広東軍政府の政争に嫌気が差し、人類社会のためという大きな目標に向かって進みたいとの焦りが綴られている[29]

再び広東軍政府大元帥の地位に就いた孫文は北伐を目指すようになった。孫文は?介石に広東に来るように要請したが、?介石は断った。1921年1月、陳炯明は、孫文の意向に従い、全国統一を目指して進出していくので?介石に中央軍の司令官になってもらいたいという趣旨の手紙を?に送った。これを受け取った?は広東に赴き、孫文と面会して全国統一の方針を確認した。そして陳炯明らと作戦計画を討議したが、結局、陳には自己の基盤を固める意思しかないこと、他の幕僚が陳への対抗意識しかもっていないことがわかると、?介石は失望して再び渓口鎮に戻った。また、?介石の理解者である胡漢民も広東を去った。?介石は革命への情熱が先行するあまり、陳炯明を信頼するなど現実に対して正確な理解を持たない孫文に対して不満を持つようになった[30]。3月には対日外交に頼る孫文の政策を批判し、国内の団結を勧める手紙を送ったが、孫文は?介石の諫言を受け入れなかった。

1921年5月、広東軍政府は改組されて「中華民国政府」と称し、孫文は非常大総統に就任した。このとき孫文は非常国会で北伐案が認められたことに興奮し、これを電報で上海にいた胡漢民や?介石に伝えた。胡漢民は上海から広東に向かったが、?介石は動かなかった。

6月14日、敬愛する母・王采玉が病没。苦労して自分を育ててくれた母に報いるために、?介石は渓口鎮での葬儀を盛大に行い、母を記念して生地に武嶺小学校を建設した。?介石は母を追悼する一文を遺しており、それには「哀れは母を喪うよりも哀れなるはない」とある[31]。孫文からは王采玉を弔うとともに、すぐに広東に戻ってきてほしいとの書簡が送られてきた。また、胡漢民や汪兆銘など孫文閥の広東政府の要人からも手紙や電報で催促された。仕方なく?介石は広東に出向いてみたものの、広東政府内部の対立や陸軍部長兼内務部長に就任していた陳炯明の態度に怒りを覚え、ごく短期間で上海や渓口鎮に戻り、母の供養と称してそこから動くことは少なくなっていった。11月23日には母の本葬が執り行われ、その墓碑銘には孫文が揮毫し、胡漢民や汪兆銘も碑文を記した。

母の本葬から間もなく?介石は三番目の夫人を迎える。上海の実業家の娘、陳潔如である。上海で?介石と暮らしていた姚治誠とは慰謝料を払って離縁となった[32]12月5日に結婚式を挙げた?介石は、その後は孫文に忠実に従い、その北伐計画に積極的に携わるようになる。
孫文と共に

1922年に入ると孫文はますます北伐断行にはやるようになった。前年11月には桂林に大本営が設置されており、?介石も大本営に入るように要請を受けていた。1月18日、?介石は結婚まもない陳潔如を連れ、孫文と共に桂林に入った。すぐさま大本営で作戦会議が開かれ、?は湖北攻撃を主張した。これに対して胡漢民や許崇智李烈鈞などは江西を攻めるように主張し、論戦となった。?は強引に自説を押し通そうとした。結果、まず湖北を攻め、次に江西に進撃する妥協策が成立した。しかし、孫文が2月3日に出した北伐軍動員令では、李烈鈞が江西を、許崇智が湖南を攻めることになった。

だが、この北伐は実施されることなく終わった。陸軍部長の陳炯明が兵站や補給を妨害したためである。陳炯明は聯省自治主義者であった。すなわち陳は孫文と異なり、省自治を前提とした、各省の横の連合による地域統合型の国家建設を目指していたのである[33]。陳は武力統一を目指す孫文と激しく対立した。

?介石はあらためて大本営で開かれた作戦会議で、北伐軍を広東に戻し、体勢を立て直してから江西に攻め入るべきだと主張した。この提案は受け入れられ、さらに?介石は北伐軍と陳炯明が衝突しないように調整に当たることとなった。4月12日に?介石が軍を率いて広東に入ると、陳炯明は孫文に辞表を提出し、配下の部隊を率いて逃亡した。孫文は陳炯明を軍職からは解任したものの内務部長の職には留めた。この措置に反発した?介石は、またしても孫文に辞表を出し、そして陳炯明に「孫文の意向に従い、北伐軍を指揮せよ」との警告を発して上海へ戻った[34]

孫文はその後も北伐を準備したが、それに反対する陳炯明との対立も先鋭化していった。そこで孫文は、上海にいた?介石に来援を求める電報を送っている。しかし北伐軍が広東を出発すると、陳炯明は6月16日にクーデターを起こし、広州の総統府を砲撃した。孫文は側近たちと共に軍艦「楚豫」に逃亡、六十数日にわたって陸上の陳炯明軍と交戦した。?介石は6月29日、孫文救援のために楚豫へ駆けつけ、48日間共に戦った。ここで?は孫文の厚い信頼を得ることに成功した[35]。だが戦況は不利で、?介石は孫文に香港への逃亡を進言、孫文と?はイギリスの軍艦に移って香港に向かい、そこから上海へ移った。

?介石は再び上海で無為の生活を送ることになった。


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