1887年10月31日、清の浙江省奉化県渓口鎮にて生まれる。父は塩や酒を扱う商人の?肇聡、母は王采玉。母親が教育熱心であったことから、?介石は6歳から私塾や家庭教師に習い、中国の古典を学んでいった。実家は裕福であったが、父は?が9歳のときに亡くなり、以後は母の手によって育てられた。当時の中国の封建的な社会において、母子家庭の暮らしは厳しいものであった。10歳から16歳にかけて生地にあった毛鳳美の塾で学び、1902年には毛鳳美の娘の毛福梅と結婚。1904年からは浙江省に設けられた新制の教育機関である鳳麓学堂で英語や数学を学び、その後寧波の箭金学堂で西洋法律を学んだ[7]。
1905年の暮れには生家に戻り、1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍速成学堂の関係者しか振武学校への入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし?介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。中正紀念堂(?介石記念館)による「?公大事年表」はこの渡日を「公(?介石)参加革命運動之始」としている。また、日本のノンフィクション作家である保阪正康は、陳其美との交友が後に?介石が武力革命の実践者となることに大きな影響を与えたとする[8]。
保定軍官学校在籍時の?介石
日本留学時の?介石
高田連隊時代
最初の妻毛福梅(左)、母・王采玉(中央)と
王采玉に抱き抱えられているのが?経国
同年冬に帰国し、改めて保定軍官学校に入学して軍事教育を受ける。そして翌1907年7月、再び日本へ渡り、東京振武学校に第11期生62名の一人として留学した。2年間の教育課程を修めたが、日本の陸軍士官学校には受からず入学せず日本陸軍に隊附士官候補生として勤務することとなり、1910年12月5日より新潟県中頸城郡高田町(現:上越市)の第13師団の歩兵、騎兵、砲兵各連隊に配属され実習を受けた[9]。?介石が配属されたのは野砲兵第19連隊
(長:飛松寛吾大佐)で、小隊長は小山田三郎大尉であった[10]。このときに経験した日本軍の兵営生活について?介石は、中国にあっても軍事教育の根幹にならなければならないと後に述懐した[11]。1910年には?介石の人生に大きな影響を与えた二つの出来事があった。一つは3月に長男の?経国が誕生したことである。そしてもう一つは孫文との出会いである。6月、アメリカに渡っていた孫文は日本に移り、東京に入った。清国政府の要求で日本政府は孫文を2週間の猶予を与えて国外退去処分としたが、このとき?介石は東京に赴き、陳其美の門弟の立場で孫文との対面を果たしている。この対面で?介石は、自分も中国同盟会の一員で、革命には軍事面で貢献したいと孫文に表明したという[12]。この対面当時の孫文の?介石に対する印象は、「まちがいなく革命の実行者にはなるだろう」というもので、「革命の指導者」としての資質があるなどとは考えていなかった[12]。 1911年夏、長期休暇を取ると上海に帰国して陳其美と秘密裏に情報交換や計画の企画立案を行う[13]。10月頭に帰隊するが、それから間もない10月10日、辛亥革命が勃発する。陳其美より帰国要請を受けた?介石は張群、陳星枢とともに師団長の長岡外史中将に休暇帰国を申し出るが叶わず、飛松連隊長に48時間の休暇を申し出ると[13]、そのまま上海航路の日華連絡船長崎丸で帰国して革命に参加する。10月30日に上海に着いた?は、その後陳其美と行動を共にする。陳は?に信頼を寄せており、杭州方面に駐在する新軍第二十一鎮
辛亥革命