董卓
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その後、朝廷から少府に任命され、軍を皇甫嵩に引き渡して帰還を促す命令を受けるが、董卓は辺地の治安悪化を理由に拒否して駐屯を続けた(「霊帝紀」)。翌中平6年(189年)に并州牧[5] となる。なお、并州牧任官と同時に、軍を手放すよう2度目の命令を受けたが、董卓は軍隊を率いたままで并州に赴任することを望んで再び勅令を拒否した(「霊帝紀」)。

董卓は軍勢を率いたまま河東に駐屯し、時勢を伺っていたという(『後漢書』「董卓伝」)。
政権掌握へ

中平6年(189年)に霊帝が没すると、少帝弁(劉弁)の外戚である大将軍何進司隷校尉袁紹らと謀議を重ね、十常侍宦官を一掃しようとしたが、妹の何太后らに反対されていた。そこで何進は董卓ら地方の軍事指揮官を召しだし何太后への圧力としようとした。董卓は何進の命令に応じて首都?陽(洛陽)に軍勢を進めた。

宦官の反撃に遭い何進が殺され、袁紹らが宮中に突入し宦官殺害を実行する中、宦官の一人中常侍段珪が少帝弁とその弟の陳留王劉協を連れ去る事件が起きた。段珪らは小平津まで逃げていたが、軍勢を率いた董卓に追撃され自殺、董卓は徒歩でさまよっていた少帝と陳留王[6] を救出して洛陽に帰還した。

董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという(『献帝紀』)。

董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので[7][8]、殺害された何進や何苗[9] の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また、同じく何進に呼び寄せられた執金吾丁原の軍士を取り込むべく、丁原の暗殺を企てた。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうが、その呂布がまもなく董卓の誘いに乗り、丁原を殺害して董卓に帰順し、董卓は丁原の兵を吸収した[10]

洛陽で軍事力を持つ唯一の存在となった董卓は兵力を背景に袁紹らを封じ込め、天候不順を理由に司空の劉弘を免職させ、後任の司空となった。そして少帝弁の生母である何太后を脅して少帝弁を廃し弘農王とし、陳留王を皇帝とした(献帝)[11]。その直後、何太后が霊帝の母である董太后を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪した[12]。董卓は何太后を永安宮に幽閉し、まもなく殺害した[13]
専横を極める

董卓は太尉・領前将軍事となり、節を与えられると共に斧と鉞と虎賁兵を与えられ、?侯に封じられた。

ついで相国[14] となり[15]、朝廷で靴を履いたまま昇殿し、さらにゆっくり歩くことと帯剣[16] を許された。さらに生母を池陽君にし家令・丞を設置することを許された。

位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、董卓の兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた[17]

董卓は名士を取り立てて政権の求心力としようとし、侍中の伍瓊、吏部尚書の、尚書の鄭泰、長史の何?らに人事を委ね、荀爽を司空、韓馥冀州刺史、劉岱?州刺史、孔?豫州刺史、張咨を南陽太守、張?陳留太守に任命した。また、かつて宦官と敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置もとった。さらに、董卓に反発し洛陽より出奔した袁紹を追討せず、勃海太守に任命して懐柔しようと図った(『三国志』魏志「袁紹伝」)。

董卓の専横に反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけ[18]初平元年(190年)に反董卓連合軍を組織した。同年2月、董卓は袁隗ら在京の袁氏一門を誅殺するとともに、弘農王を毒殺した。さらに司徒の楊彪・太尉の黄?[19]・河南尹の朱儁[20] らの反対を押し切って長安に強制的に遷都した。その際に洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。また、袁紹らとの融和策をとっていた督軍校尉の周と城門校尉の伍瓊を殺害した[21][22]

その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃つ姿勢をとった[23]。まず、董卓は河陽津で陽動作戦を用いて泰山の精兵を率いる王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、?陽?水で曹操鮑信らを大いに破り、梁県で孫堅を破った[24]

この間、兼ねてより折り合いの悪い皇甫嵩が軍勢を率いて関西方面にあったため、董卓は城門校尉に任命すると称して長安から皇甫嵩を召還して殺害しようとした。皇甫嵩が自立を勧める部下の反対を押し切り帰朝してきたため、董卓はさっそく皇甫嵩を逮捕投獄し、死刑にしようとしたが、皇甫嵩の子の皇甫堅寿が急遽洛陽に駆けつけ、董卓に必死に嘆願したため、董卓は皇甫嵩の軍権を剥奪するに留めた(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。
長安で死す

初平2年(191年)、胡軫呂布らが率いる董卓軍が孫堅と戦い、華雄が討たれるなど大敗した(陽人の戦い)。このため、同年4月、董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退した。

董卓は長安に着くと太師と称し、董旻・董?ら一族を皆朝廷の高官に就け、外出するときは天子と同様の青い蓋のついた車を乗り回すようになった。長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳したために、貨幣価値が乱れた。長安近くの?に長安城と同じ高さの城壁をもった城塞を築き(?城・?塢と言われる)、30年分の食糧を蓄えていたという。董卓の暴虐ぶりはあいかわらずで、逆らった捕虜は舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で苦しみながら殺された。捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましたが、董卓はそれをみて笑い、なお平然と酒を飲んでいたという。董卓に信任されていた蔡?は董卓の暴政を諌めたが、一部を除きほぼ聞き入れられることはなかった[25]

董卓が太師に就任する儀式の際に、壇上に上る自分に皇甫嵩一人だけが頭を下げなかったことに気づき、董卓は「義真(皇甫嵩の字)、まだかな?」と改めて促し、皇甫嵩も果たして「これは失礼した」と従っていた。皇甫嵩があくまで遜り忍従する態度を貫いたため、董卓は皇甫嵩と和解したという(『山陽公載記』及び『漢紀』)。

一方で、かつての上司である張温を憎み、袁術に通じていたという理由で殺害した。董卓は大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡毋班らを関東への使者として送ったが、袁術と王匡に韓融を除いてことごとく殺害されたという。

関東の諸侯らは袁紹派と袁術派に分かれて互いに争うようになっていた。また、長安遷都に反対した朱儁は中牟において挙兵し、献帝の奪還を狙っていた。董卓は袁紹の背後の幽州の劉虞公孫?に官位や爵位を贈って袁紹への牽制とする一方で、娘婿の牛輔李?張済らを部下につけて関東に派遣した。牛輔らは中牟で朱儁を破り、?州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略し、略奪・殺戮・誘拐を行った。

かねてより荀攸は議郎の鄭泰・何?、侍中の?輯共に董卓を暗殺しようと計画したが、失敗した。鄭泰は逃亡し、荀攸と何?は投獄された(『三国志』魏志「荀攸伝」)。

このような情勢下で、董卓が都において信任したのは蔡?の他、司徒王允と、養子の呂布であった。董卓は王允を尊敬して朝政を任せると共に、武勇に優れた呂布に身辺警護させていた。しかし、王允もまた心中では董卓の暴虐を憎み、尚書僕射の士孫瑞と共に謀議をめぐらせていた。あるとき、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来、恨みを持つようになっていた[26]。王允らは呂布の不安に付け込み、暗殺計画の一味に加担させた。

初平3年(192年)4月、董卓は献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は詔を懐に忍ばせて、同郷の騎都尉である李粛と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓は李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。呂布は詔と称して董卓を殺害した。

事件後、長安・?に居た董旻・董?をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された(『英雄記』)。また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は平素からかなりの肥満体で、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心を挿したが、火はなお数日間燃えていたという(『英雄記』)。長安の士人や庶民は、董卓の死を皆で喜んだ[27]

王允は董卓の与党とみなした人物に対しては粛清する態度で臨み、名声が高かった蔡?も含めて皆殺害された。董卓の娘婿の牛輔にも追討軍を差し向けた。牛輔は李粛の追討軍を破ったが、逃走を図って部下に殺害された。残された李?・郭らは王允に降伏を願ったが拒絶されたため、6月に軍を率いたまま長安へ進撃した。李?らの軍勢は膨れ上がり10万になり、王允は呂布に迎撃させたが敗れ、呂布が逃走すると李?らはそのまま長安に乱入し、殺人と略奪をほしいままとし、王允を殺害し死体を晒し者とした。

董卓の葬儀のため、部下だった兵士が死体の灰をかき集めて棺に納めて?城に葬ったという(『英雄記』)。董卓の墓はまもなく暴風雨のため、水が流れ込み棺が浮かび上がるほどの被害に遭った。
評価

陳寿は、「董卓は心拗(ねじ)け残忍で、暴虐非道であった。記録に遺されている限り、恐らく是程の人間はいないであろう」と評している。

天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、この時期の日本において暴君の代表的存在として認知されている。


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