葛飾北斎
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こうした傾向について永田は2017年に出版した自著において、「近年の研究によりこの年代の絵師としては多作かつ多彩な内容であったと評価が改められつつある」と指摘している[17]

一般的に北斎の処女作として知られているのは吉原細見の『金濃町』(鱗形屋版)に寄せた挿図や、細判役者絵『かしく岩井半四郎』を始めとした役者絵3点であり、勝川春朗の名でこれらを描いた[3]。北斎について研究している永田生慈はこの画号について、春章の春の字と、別号の旭朗井の朗の字を与えられるという待遇は、それなりに将来が嘱望されていたのではないかと分析している[3]。ただし、寛政5年(1793年)には叢春朗[注釈 6]に画姓が変化しており、この時点で勝川派を離脱していた可能性も指摘されている[19]

春朗として手掛けた作品としては役者似顔絵、美人風俗、日本と中国の子供、動植物、金太郎、信仰画、和漢武者、伝説古典、名所絵、相撲などを題材とした浮世絵版画、黄表紙芝居絵本洒落本咄本談義本句集狂歌本の挿絵など多種多様なものを手掛けたことが確認されている[20]

春朗時代の画風について、春章に師事してから天明元年(1781年)ごろまでは習作期とも言え、人物表現などに粗やぎこちなさが目立つ[21]。その後の天明4年(1784年)ごろまでは勝川派の様式だけでなく北尾重政鳥居清長らの影響が見られるようになり、他派のスタイルをも受容しようとする研鑽の様子が窺える[22]。次の2年間は黄表紙の挿絵を中心に活動しており、作品によって完成度に大きな違いが見られた[22]。また、一時的に画号を群馬亭へと改めていることから、勝川派との問題が生じていた可能性も指摘されている[22][注釈 7]。天明7年(1787年)から寛政4年(1792年)までの期間は作品量が増加し、勝川派の様式を底に添えつつも新たな独自画風を確立した時期と言える[19]。そして春章が没した1793年以降は画号を叢春朗に改め、摺物や句集、狂歌本の挿絵など、これまでにない分野への進出が見られた[19]。確認されている中で春朗の落款が押されている最後の作品は、1794年8月の摺物『砧打図』である[23]。永田はこの年代を総じて「生涯で最も浮世絵師らしい作画活動を展開した年代」と位置付けている[23]
宗理時代『二美人図』(1806年から1813年ごろ[24])「宗理風」と呼ばれる女性描写を確立させた。

寛政7年(1795年)から文化元年(1804年)頃までのおよそ9年間は「宗理時代」と呼ばれ、北斎独自の様式を確立させた年代と見なされている[25]。この間は百琳宗理、北斎宗理、宗理改北斎、北斎時政、不染居北斎、画狂人北斎、九々蜃北斎、可候などの画号が用いられた[25]

どのように接触したかについては明らかとなっていないが[25]、北斎は寛政6年(1794年)の秋から冬にかけて琳派の領袖、俵屋宗理から宗理を襲名したと見られており、翌1795年にこの落款の使用が見られるようになった[23]。詳細は不明ではあるものの、叢春朗の活動期には既に宗理時代の萌芽と見られる作画傾向が確認できることから、この宗理襲名はある程度計画性のある出来事だったと考えられている[25]俵屋宗達によって創始された琳派は尾形光琳尾形乾山以降、沈滞の時を過ごしていたが、北斎が宗理を襲名する時代には俵屋宗理ら俵屋派一門の活動により、その勢いを取り戻しつつあった[25]。そして北斎が襲名した後は独自の様式を確立させて世評を得ることに成功し、目覚ましい活躍を見せた[25]。北斎は2年ほど宗理の名で活動した後に独立を果たし、寛政10年頃に北斎と改め、宗理の名は門人である宗二へと受け継がれたと大田南畝の『浮世絵類考』に記されている[26][27]

宗理を襲名していた期間には狂歌絵暦が流行していた背景も手伝って、高級な用紙で高度な彫りと摺りを駆使した狂歌本や狂歌摺物、絵暦が作品の中心となった[28]。一方で春朗時代に数多く制作していた浮世絵版画は見られなくなっており、永田はその理由について「宗理襲名にあたってのなんらかの取り決めがあったか、勝川派からのプレッシャー、あるいは北斎自身の遠慮があったのではないか」と推察している[29]。そして、独立を果たした寛政10年(1798年)以降に入ると、黄表紙の挿絵や浮世絵版画などの制作も確認できるようになった[29]。さらには最晩年まで取り組みが見られる肉筆画に傾注したのもこの時期からで、特に画狂人北斎を号した時期には夥しい数の肉筆画作品を描き上げた[30]

作風としては先に述べたように独特の様式を確立させるに至っており、楚々とした体躯で富士額に瓜実顔の画貌をした哀愁のある女性描写は「宗理型」あるいは「宗理風」と呼ばれ、大いに賞賛された[31]。また、様々な画題の注文を断ることなく即応し、複数の描法を混用させて斬新な作品を発表し続ける姿勢も、他の浮世絵師とは異なった北斎独自の魅力として世評を得ていたと見られている[31]

この期間における北斎の平素の生活ぶりを示す資料はほとんど確認できないが、大田南畝の私的日記に親交を伺わせる記述が見られる他、朝岡興禎の『古画備考』に寛政10年(1798年)ごろの話としてオランダのカピタンが北斎の絵を求めたことで、支払いを巡ってひと悶着があったという逸話がのこされている[32]。また、文化元年(1804年)には江戸の護国寺において百二十畳あまりの巨大な達磨半身像を揮毫したことが斎藤月岑の『武江年表』や大田南畝の『一話一言』に記されており、注目度の高い催事だったことがうかがえる[33]
葛飾北斎時代曲亭馬琴椿説弓張月』(1807年)での北斎による挿絵。

北斎は文化2年(1805年)から文化6年(1809年)にかけて葛飾北斎と号した[34][35]。この頃に入ると宗理風の様式は姿を潜め、漢画の影響を強く受けた豪快で大胆な画風へと変化している[34]。こうした変化は江戸の流行が狂歌から読本へと移り変わり、その挿絵制作に注力し始めたためと考えられている[34]。北斎の携わった読本で最も古いものは1803年に刊行された流霞窓広住の『蜑捨草』だが、本格的な読本制作の開始は1805年からで、曲亭馬琴と提携して数多くの作品を作り上げた[36]。読本の挿絵は黄表紙の挿絵と異なり、複雑な内容に対して墨と薄墨で適切な場面描写を行う必要があり、絵師には高い技術や深い知識が要求された[37]。北斎の発想力は他の絵師の追随を許さず、読本の隆盛に大きく貢献したとされる[38]。また、真剣に向き合うあまり、挿絵の内容で馬琴と口論となり、後年には両者の間で確執が生じたと伝えられている[38]。また、名所絵として東海道五十三次をテーマとした作品や、『風流東部八景』『新板近江八景』などの鳥瞰での景観描写を試みた作品などが発表された[39]


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