3万石→4万石 親藩(御連枝)
頼方
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当時の地元の文書では、頼方領を指して「紀州様御領」と呼ぶことが最も多く、次いで「松平主税頭様御領分」が多い[2]。
^ それ以前も頼職と頼方には2人同時で御目見や叙位等が行われている。元禄9年(1696年)4月14日に江戸城で綱吉に御目見し[4]、同年12月11日にともに従四位下左近衛少将に叙された(頼職は内蔵頭、頼方は主税頭に改めた)[5]。なお、『徳川実紀』では頼職を二男、頼方を三男として扱っている(夭折した二男の次郎吉が数えられていない)。
^ 丹生郡内で下糸生村など13か村・坂井郡内で針原村など32か村[6]
^ 頼職から代官に任命された人物[1]。
^ もとは紀伊国伊都郡学文路村(現在の和歌山県橋本市)の庄屋であるが、優れた灌漑技術者・地方巧者として元禄9年(1696年)に紀州藩の家臣に登用された[1]。
^ この周辺は中世に「糸生郷」と呼ばれた地域で[7]、付近には泰澄ゆかりの寺とされる天台宗の古刹・越知山大谷寺が所在する[7][8]。
^ 頼方は四品ではあったが城主大名としては認められておらず、無城(陣屋)大名であった。
^ 『福井県史』では、宝永2年5月「頼職が本藩を継ぎ高森藩は廃された」、9月「頼職も死去したので、頼方が和歌山藩主を継ぐことになり、葛野藩も廃藩となった。同藩領三万石と高森藩領のうち一万石は幕府領」となった、10月「高森藩領の残り二万石は〔…中略…〕本庄(松平)宗長に与えられた」と記している。
^ 間部家は徳川家宣に信任されて幕政を主導した側用人間部詮房の家である。吉宗が将軍に就任すると間部詮房は失脚して上野高崎から村上に移され(「左遷」とされる)、詮房の跡を継いだ詮言がさらに実質的減封の上に家格を下げられる転封を命じられた。鯖江藩参照。
^ 『旧高旧領取調帳』によれば、上糸生村・下糸生村は幕末・廃藩置県まで鯖江藩領であった。
^ 宿老2人、代官1人、郡奉行2人、勘定役3人、地方手代7人、奉行組1人、出入同心9人、医師1人、勝手役2人[1]。
^ 織田文化歴史館が引くところによれば、原文は「我者紀州ニありし時、天下村を領したり全ク此将軍となるの吉兆なり」という[2]。
出典^ a b c d e f g h i j k l m “第一章>第一節>三>高森藩と葛野藩