葛野藩
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藩領時代から合わせて20年あまりにわたって陣屋が所在し役人が駐在していたことからは、物資供給や奉公人などの需要も生じることとなり、葛野地区は周辺の村よりも商人や職人の多い「町」的な姿になったという[2]

吉宗が将軍となっていた享保5年(1720年)、越後村上藩主であった間部詮言越前国に移されて鯖江藩が立藩された際[1][注釈 9]、葛野陣屋のある下糸生村周辺は鯖江藩領となった[注釈 10]。葛野陣屋代官の小泉市太夫は管轄下の村(今立郡74か村と丹生郡14か村)を鯖江藩領の一部として引き渡した[12]

陣屋跡は現在は葛野神社となっており、領域の隅に葛野陣屋跡座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度59分29.227秒 東経136度05分45.079秒 / 北緯35.99145194度 東経136.09585528度 / 35.99145194; 136.09585528 (葛野藩陣屋跡)を記念する小さな石碑が建っている。
政治

藩主である頼方は領地に下ったことはなく、代官が派遣されて統治していた。公称は当初で3万石であったが、実高はそれより少なかったとされる。

葛野藩で支配にたずさわった家臣は合計14人で[注釈 11]、これは高森藩と同数である[1]

郷村支配のあり方や年貢の収納方法については、幕府領時代のものを踏襲したとみられる[1]
備考

徳川実紀』(有徳院実記第十三)には、頼方(吉宗)が綱吉から「領知三万石を給ひ、越前丹生の郷鯖江の地を領したまふ」と誤って記している[2]

葛野藩領には上.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}天下(てが)村・下天下村(丹生郡。現在の福井市上天下町・下天下町)があった[2](幕末期には福井藩領)。吉宗が「私は紀州にいたときに天下村を領した。これは将軍になる吉兆であった」[注釈 12]と述べたという話が、幕末期の福井藩主松平慶永の日記『真雪草子』に記されている[2]

のちに頼方(吉宗)が将軍になったことから、旧領では実際には領地入りしていないはずの吉宗との縁を語る様々な伝説が生じることとなった[2]。たとえば上天下村(上述)の旧家では、領内を巡察した頼方が村の名前を大層喜び、さまざまなものを拝領したと伝えられている[2]。丹生郡笹谷村(現在の福井市笹谷町)では、頼方が村に仮館を設けて葛野に移るまで滞在したと伝えている[2]

葛野神社が所蔵している木像は、頼方(吉宗)の像とされる。ただし、『越前国名蹟考』では紀州藩祖である徳川頼宣の像としており[2]、いつの頃からか吉宗のものとする伝承に置き換わったようである。1894年(明治27年)の『神社明細帳』には「徳川吉宗木像」として載せられている[2]

歴代藩主
葛野松平家

3万石→4万石 親藩御連枝
頼方

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当時の地元の文書では、頼方領を指して「紀州様御領」と呼ぶことが最も多く、次いで「松平主税頭様御領分」が多い[2]
^ それ以前も頼職と頼方には2人同時で御目見や叙位等が行われている。元禄9年(1696年)4月14日に江戸城で綱吉に御目見[4]、同年12月11日にともに従四位下左近衛少将に叙された(頼職は内蔵頭、頼方は主税頭に改めた)[5]。なお、『徳川実紀』では頼職を二男、頼方を三男として扱っている(夭折した二男の次郎吉が数えられていない)。
^ 丹生郡内で下糸生村など13か村・坂井郡内で針原村など32か村[6]
^ 頼職から代官に任命された人物[1]
^ もとは紀伊国伊都郡学文路村(現在の和歌山県橋本市)の庄屋であるが、優れた灌漑技術者・地方巧者として元禄9年(1696年)に紀州藩の家臣に登用された[1]
^ この周辺は中世に「糸生郷」と呼ばれた地域で[7]、付近には泰澄ゆかりの寺とされる天台宗の古刹・越知山大谷寺が所在する[7][8]
^ 頼方は四品ではあったが城主大名としては認められておらず、無城(陣屋)大名であった。


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