葛西大崎一揆
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秀吉はこの主張を認め、政宗に改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として豊臣秀次徳川家康にも出陣を命じた。

5月に米沢へと戻った政宗は、6月14日に再び出陣して本格的に一揆の掃討に取りかかる。しかし、一揆勢の烈しい抵抗に遭い浜田景隆佐藤為信ら重臣が相次いで討ち死にを遂げるなどしたが、7月4日に寺池城が陥落すると残った一揆勢も降伏して、ようやく一揆は終息する。8月14日、政宗は桃生郡須江山に一揆の主立った者らを呼び寄せると、泉田重光屋代景頼に命じて皆殺しにし[注釈 5]12月7日、秋保氏一族の馬場定重・頼重父子に命じて小野城主・長江勝景(葛西晴信・相馬義胤からみて義兄)を殺害させた。

領主・木村吉清は一揆発生の責任を問われて改易となり、吉清は氏郷を頼ってその客将となった。木村領の葛西・大崎13郡は政宗に与えられることになったため、前年に大崎義隆へ下された朱印状は反故となり、大崎氏の大名復帰は叶わなかった。9月23日、秀吉から葛西・大崎13郡の検地と城砦改修とを命じられていた家康は、仕置を終えて政宗に新領土を引き渡した。政宗は岩手沢城を岩出山城と改名し、慶長6年(1601年)に青葉城を築いて移るまで居城とした。
政宗による一揆への関与[ソースを編集]

政宗が一揆に書状を送るなどして煽動したという疑惑については、政宗の関与を否定するむきも有るが(氏郷の策略・須田伯耆の誣告・一揆衆による宣伝工作等)、政宗自身が一揆を煽動していたとの見解が最有力である。奥州仕置で惣無事令後に獲得した会津ほか8郡を没収された政宗が、失地回復の手段として、一揆を起こさせて新領主の木村を失脚させ、一揆鎮圧の功績を以て葛西・大崎旧領を獲得しようと企んだ、というのが大体の筋書きで、須江山における一揆謀殺も、証拠湮滅のために行われたと見られている。

秀吉もまた、政宗の申し開きを表向きは認めたものの、明らかに懲罰と見受けられる措置(下記参照)をとっていることから、政宗の煽動が一揆発生の原因と判断したと考えられる。
戦後処理・影響[ソースを編集]

秀吉は政宗に葛西・大崎13郡30万石を政宗に与えたが、その替わりに本来の所領12郡余72万石のうち、6郡(長井信夫伊達安達田村刈田)44万石を没収して氏郷に与えた。これにより政宗の所領は19郡余58万石となった。

政宗に新たに与えられた葛西・大崎13郡は一揆による荒廃が甚だしく、加えて200年余もの間伊達氏の所領であった伊達・信夫・長井の3郡を喪失したことにより、実際に被った経済的損失は減封分14万石を大きく上回るものであった。なお、葛西・大崎13郡が復興を遂げて仙台藩が実高100万石とも称されるようになるには、寛永3年(1626年)の川村重吉による北上川改修工事の完成を待たねばならない。

同時に転封に伴う伊達家中の知行再編が行われたが、減封の影響によって知行高は軒並み削減された上、転地の際にはそのままでは収穫を見込めない荒蕪地・野谷地を多く宛われたため、困窮した家臣団の不満が高まった。転封を拒んだ北目城主・粟野重国が居城を攻め落とされたほか、伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ。また、広大な知行地を与えた重臣達に領地復興を丸投げする格好になったため、仙台藩において地方知行制が幕末に至るまで残存する原因となり、集権化は大幅な後退を余儀なくされた。
脚注[ソースを編集][脚注の使い方]
注釈[ソースを編集]^ 「余目文書」には、「奥州の仕置は政宗が太閤殿下から一任されている」と政宗が称し、そのように振舞っていた旨の記述がある。
^ 13郡のうち、胆沢・江刺・磐井・気仙・本吉・登米・桃生・牡鹿を葛西八郡、栗原・遠田・志田・玉造・加美を大崎五郡と称した。また、桃生・志田両郡の一部は稙宗の時代から一貫して伊達氏の勢力圏内であり、奥州仕置後も引き続き領有を認められていた。
^ 須田伯耆の父・親重(父も伯耆と称す)は、天正13年(1585年)に政宗の父・輝宗が殺害された際に殉死した。
^佐久間軍記』には、政宗が氏郷を酒席に招いて暗殺を謀ったが失敗したという話が記されている[3]
^ 仙台藩ではこれを秀次の命令によるものだと主張しているが、伊達成実の著作とされる『成実記』には「一揆達は騙された…騙して一揆参加者達を皆殺にした」という旨の記述がある。

参照[ソースを編集]^ 小林(2003)pp.283-284
^ 藤木(1978)p.224
^ Wikisource 『佐久間軍記』

参考文献[ソースを編集]

藤木久志 著「中世奥羽の終末」、藤木・大石直正入間田宣夫・遠藤巌ほか共著 編『中世奥羽の世界』東京大学出版会、1978年4月。 

小林清治「大崎・葛西合戦」『奥羽仕置と豊臣政権』吉川弘文館、2003年9月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-642-02828-5


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