これを実現するため、著作権法は「著作物」を定義し、「条件を満たした著作物」の「条件を満たした利用」に関する独占的な「権利」を「著作者」へ付与する(#著作物、#権利対象外の著作物、#著作権の制限、#著作権の内容、#著作者)。
より具体的には、著作物の創作者である著作者に著作権(著作財産権)や著作者人格権という権利を付与することにより、その利益を保護している。一般的に、著作物を他人が無断で無制限に利用できないように法的に保護する必要がある。著作物を創造した人物は、その著作物を他人が無断で利用しても、自己の利用を妨げられることはない。しかし、他人が無制限に著作物を利用できると、著作物の創造者はその知的財産から利益を得ることが困難となる。著作物の創造には費用・時間がかかるため、無断利用を許すと、知的財産の創造意欲を後退させ、その創造活動が活発に行われないようになるといった結果を招くためである[2]。
著作権法は、著作物に密接に関与している実演家、レコード製作者、放送事業者及び有線放送事業者に対して著作隣接権等を付与し、これらの者の利益も保護している。同法に定められる内容は、総則(1条?9条の2)、著作者の権利(10条?78条の2)、出版権(79条?88条)、著作隣接権(89条?104条)、私的録音録画補償金(104条の2?104条の10)、紛争処理(105条?111条)、権利侵害(112条?118条)、罰則(119条?124条)に分類される。
著作権法は権利の侵害に対する罰則を定めており、刑事罰を含んだ親告罪となっている(#権利侵害)。
日本の著作権制度の萌芽は近代以前の版元の権利にあり、国際条約への加盟を契機として本格的に整備され、現在では知的財産権の重要な一角として様々な法改正がおこなわれている(#沿革)。
沿革「版権#法令における版権」も参照
日本では、近代以前においては版木の所有者である版元が出版物に関する権利者と考えられ、著作権に相当する概念が存在しなかったとされている。明治初期に福沢諭吉らの紹介と政府への働きかけにより、「版権」として著作権の一部が保護を受けることになった。
19世紀末に日本がベルヌ条約への加盟をするにあたり、国内法の整備の一環として初めて著作権法が制定された。この著作権法は「旧著作権法」とも呼ばれるもので、1970年に旧法を全部改正して制定された新著作権法とは通常区別される。その後新法も時代に合わせた改訂を重ねている。
1886年 - ベルヌ条約締結。
1887年 - 版権條令制定[3]。
1893年 - 版権法制定[3]。
1899年 - 日本がベルヌ条約に加盟[4]。
1899年 - 旧著作権法制定[3](版権法等関連旧法は廃止)。
1931年 - プラーゲが音楽著作権の使用料を要求(プラーゲ旋風)。
1939年 - 仲介業務法施行[5]。
1951年 - サンフランシスコ平和条約第15条C項により戦時加算。
1970年 - 新著作権法制定[6]。
1985年 - 昭和60年6月14日法律第62号により著作権法(昭和45年法律第48号)の一部が改正され、「プログラムの著作物」が著作権法で明示的に保護対象になった。1986年(昭和61年)1月1日から施行された。
1999年 - 平成11年6月23日法律第77号により著作権法(昭和45年法律第48号)の一部が改正され、私的使用のための複製の場合は技術的保護手段を回避するような複製ができなくなった。1999年(平成11年)10月1日から施行された。
2000年 - 著作権等管理事業法施行にともない、仲介業務法廃止。
20世紀半ば以降、企業により著作物が製作されるようになると、便宜的に架空の人物を著作者とした事例が出てくるようになった(八手三郎、アラン・スミシーなど)。 日本で最初に著作権の保護が規定されたのは、1869年の出版条例である。出版条例では、出版者に対して図書の「専売ノ利」を与えていたが、その内容はむしろ出版の取締りに重点が置かれていた。1887年、出版条例から版権の保護に関する規定が独立し、版権条例 1899年、文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(ベルヌ条約)加盟にあわせ、水野錬太郎が起草した著作権法(明治32年3月4日法律第39号)が3月4日公布、7月15日施行され、版権法、脚本楽譜条例及び写真版権条例は廃止された。これは現在の日本では一般に「旧著作権法」と呼ばれる。起草者の水野錬太郎は著書「著作権法要義」[7]で旧著作権法の逐条解説を行った。 現行の著作権法は、1970年に旧著作権法の全部を改正して制定され、1971年1月1日に施行された。[8]
旧・著作権法制定前
旧・著作権法の成立と改正
著作物と著作者