落語
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1903年(明治36年)には初めて落語のレコード録音がなされた[10]。速記本とレコード落語の流布は、気軽に寄席に通えない人びとが気軽に落語を楽しむことを可能にした。
大正から昭和の時代

1917年大正6年)8月には東京の柳派三遊派が合併し、4代目橘家圓蔵初代三遊亭圓右3代目柳家小さんら売れっ子たちが中心となり、大手の寄席28軒との月給制の契約を交わす演芸会社「東京寄席演芸株式会社」を旗揚げした。この月給制に反対し、従来どおりのワリ(給金制)で対抗するべく、5代目柳亭左楽は「三遊柳連睦会(通称、睦会)」を設立した。そののち、前者は翌年11月に分裂。「東京演芸合資会社」と名前を変え、一方では上野鈴本を中心とした一派により「落語席中立会」(通称、中立会)が結成され、これがのちに「東西落語会」(東西会)へと発展した。しかし、1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災を契機として三派合同の気運が生まれ、のちに合併して「東京落語協会」(現在の落語協会)が設立された[10]

1925年(大正14年)にラジオ放送が始まると、落語はラジオからも流れるようになった[10]。また、それまでは落語を「おとしばなし」と読んでいたのを、「らくご」と読むようになったのもこれ以降である[11]1930年(昭和5年)には「日本芸術協会」(現在の落語芸術協会)が設立されている[10]

1930年代から1945年(昭和20年)にかけて、満州事変より太平洋戦争終結までの時期には国家による統制が強化され、時局にそぐわないとされた演目の上演が自粛されたり(禁演落語五十三種)、戦争遂行の観点に沿って演目の改編や新作が行われ、寄席やラジオ、レコード等各種メディアを通じて広められた(国策落語)。また、太平洋戦争終結後の連合国軍占領下でも、連合国軍最高司令官総司令部の方針に基づき、民主化に不適当とみなされた演目の上演が自粛された(自粛禁演落語廿七種[12]

上方落語は、大正から昭和にかけて初代桂春團治らが活躍したが、昭和期に入ると漫才に押されて一時衰退する。戦中戦後にかけて、5代目笑福亭松鶴4代目桂米團治ら「楽語荘」によってその命脈が辛うじて保たれたのち、1957年(昭和32年)に上方落語協会が設立され、今日の隆盛につながっている。

戦後の1950年代にはラジオで落語がブームとなった[10]。また、大学のサークル活動としての落語研究会(通称「落研(おちけん)」)が生まれたのは昭和20年代頃である[注 4]

1953年(昭和28年)、テレビ放送が始まった[10]1960年代には落語ブームが起こるが、これはテレビ演芸ブームによってもたらされたものであった[13]。なかでも初代林家三平は各種のテレビ番組で活躍し、「爆笑王」の異名をとった[10]1966年(昭和41年)には日本テレビ系で『笑点』の放送が始まっている[10]

1978年(昭和53年)、落語協会の運営方針をめぐって協会内で対立が生じ、6代目三遊亭圓生古今亭志ん朝(3代目)、立川談志7代目橘家圓蔵と弟子の月の家圓鏡(8代目橘家圓蔵)などが脱退した(落語協会分裂騒動[10]。しかし、圓生以外は結局落語協会に戻り、圓生一門で「落語三遊協会」を設立した。圓生没後は三遊協会は解散となり、5代目三遊亭圓楽の一門のみが「大日本落語すみれ会」(現在の円楽一門会)として独立し、それ以外は落語協会に復帰した。1983年(昭和58年)には立川談志一門が真打昇格の方針を巡って落語協会を脱退、「落語立川流」を創始して、みずから家元となった。現在、東京では落語協会・落語芸術協会・立川流・円楽一門会の四派体制がつづいている[10]
平成のブーム

平成に入って、1993年(平成5年)には初の「女真打」が誕生し、1995年(平成7年)には東京の5代目柳家小さん、翌1996年には上方の3代目桂米朝がそれぞれ「人間国宝」に選ばれた[10]

21世紀に入って、落語界には、マスメディアでも幅広く活躍していた春風亭小朝が発起人となった「六人の会」や、新作落語の隆盛をめざした話芸集団「SWA(創作話芸アソシエーション)」の結成という新たな展開が生まれ、一方では長瀬智也岡田准一が主人公を演じたテレビドラマタイガー&ドラゴン』(TBS系)や連続テレビ小説ちりとてちん』(NHK)などの影響によって新たな落語ファンが生まれた[10]

また2010年代中盤には、雲田はるこ昭和元禄落語心中』や立川談春赤めだか』など、落語を題材にした漫画・エッセイ等が人気を呼ぶとともに、西新宿ミュージックテイトや渋谷らくごなど、従来の寄席やホール落語とは違い、初心者や若い人も気軽に足を運びやすい落語会が増えたこともあり、一部マスコミからは落語ブームと呼ばれている。

このような現象はしばしば「平成の落語ブーム」と呼ばれる[10]。このブームの特徴は、「この落語家を聴け!」などの初心者向け書籍でブームを盛り上げた広瀬和生によると「落語全般」が好きな落語マニアによるブームだけではなく、それぞれ自分のことばで積極的にweb上で好きな落語家を語るようになったファンによるブームであるということで、個別に熱烈なファン層をもつ落語家が多数存在することによっているとされる[13]
落語の演目とその分類個々の演目のリストについては「Category:落語の演目」を参照

落語演目の分類にはいくつかの方法があり、それによって立てられる種類や区分も異なることもある。
成立時期による分類

古典落語新作落語があるが、その厳密な定義は難しい[14]

江戸期から明治期ごろまでに原型が成立し、太平洋戦争終結頃までの時期に演出が確立した演目を「古典落語」という場合がある[15]。これに対し、「新作落語」は作者もしくは初演者以外の噺家が演じることは少なく、多くは現代的な事象を扱い、また、社会の動向に機敏に反応した時事的な作品や風刺性の強い作品も多い。

ごく大まかには、不特定多数の演じ手が現代にいたるまで連綿と受け継いできた、主として作者不詳のいわば「スタンダード作品」としての落語が「古典落語」、特定の演者または作家がつくる「同時代限定」で演じられるのが「新作落語」である[14]。しかし、明治時代の三遊亭圓朝(初代)が創作した、『文七元結』『芝浜』『鰍沢』『死神』『真景累ヶ淵』『牡丹灯籠』『怪談乳房榎』『双蝶々』などの作品群は、作者が明確にわかっていても「不特定多数の演じ手が受け継いできた」という点では古典的であり、今日ではむしろ最も正統的な古典落語として位置づけられることが多い[14]。しかし、当時にあっては圓朝はいわば、こんにちでいう「新作落語家」だったわけである[14]


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