落語
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近郊都市を中心に発展してきた落語には、大きく江戸落語上方落語の流れがあり、両者には、演目の内容や落ち(サゲ)、小道具、また慣習などに違いがある[3]。同名の演目でも舞台となる地名を変えたり、サゲが同じでも途中の演出を変えたりする場合がある[3]。上方落語だけに使われる道具として「見台」・「小拍子」・「膝隠」がある[2]。見台とは演者が前に置く小型の、小拍子とは小さな拍子木、膝隠しは低い衝立である。小拍子で見台を打ち鳴らすことによって場面転換をおこなったりする[2]。また、上方落語独特の演出方法に「はめもの」があり、これは、噺の途中に入れる一種の効果音である[2]。江戸・上方相互の交流は古くからさかんであった反面、地域性もまた現在に至るまで根強くのこっている[3]

世界的には、中国の話芸である「相声」のうち単口相声に形態が類似している。
歴史
落語の祖、安楽庵策伝

おもしろみのある話の源流は『竹取物語』、または『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に収められた説話にまでさかのぼる。

滑稽な話を集めた本の元祖としては、京都誓願寺安楽庵策伝京都所司代板倉重宗に語った話をもとに作られたという元和9年(1623年)の『醒睡笑』が挙げられる。浄土宗説教師であった策伝は御伽衆として大名の話し相手となり、「落とし噺」の名手であるばかりではなく、文人であり茶人でもあった[4]。策伝の著した『醒睡笑』は、幼少時から聞き覚えた話を集めた全8冊から成る笑話集で、収載された話は約1,000話におよんでいる[4]。収載された話は最後に落ち(サゲ)がついており、策伝はこの形式で説教をしていたと考えられている[4]。『醒睡笑』には現在の小咄(短い笑い話)もみられ、また、この本に収載された話を元にして『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』など現在でも演じられるはなしが生まれているところから、策伝は「落語の祖」といわれる[4]。なお、豊臣秀吉の茶話相手として近侍した御伽衆の一人、曽呂利新左衛門も噺家の祖といわれることもあるが、この人物の実在性については疑いがもたれている。
噺家のはじまり

落語はもともと「落とし噺(おとしばなし)」といい、落ちのある滑稽なものを指した[3]

元禄期、京都では露の五郎兵衛四条河原北野などの大道(だいどう)で活躍した。これを「辻噺」といい、これを行った人々を「噺家」といい、落語家の始まりとされる[3]。五郎兵衛がのような台に座って滑稽な話をし、ござに座った聴衆から銭貨を得るというものであった[5]。五郎兵衛は、後水尾天皇の皇女の御前で演じたこともあった。

少し遅れて大坂米沢彦八が現れて人気を博した[5]。彦八は生玉神社境内で小屋掛けの辻噺をおこない、名古屋でも公演した[5]。『寿限無』の元になる話を作ったのが、この初代彦八であるといわれており、彼の出身地の大阪市では毎年9月に「彦八まつり」がおこなわれるほど上方演芸史において重要人物であるとされる[6]

同じころ、江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門芝居小屋風呂屋に呼ばれ、あるいは酒宴など、さまざまな屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始め、これが講談と並び評判となった。

時期をほぼ同じくして三都で活躍した上記3名は、いずれも不特定多数の観客から収入を得ていることから後世では噺家の祖とされる。ただし、江戸の武左衛門が些細なことから流罪に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気は下火となった[5]

なお、上方落語では今日「見台(けんだい)」という小型の机を用い、小拍子で打ち鳴らして音をたてる演出がある。これは京・大坂での大道芸として発展した「辻噺」の名残りといわれている[5][注 1]。噺を聞く事が目的でない通行人の客足をとめるため、喧騒に負けず目立つ必要があったためと考えられている[7]。さらには上方言葉で聞き手に語りかけ、旺盛なサービス精神で愛嬌を振るまうなどの親近感を出すための多彩な工夫も特徴とされる。

対して江戸落語(その後の東京落語)は、屋内でもともとは少人数を相手にした噺であり、噺家も聞き手に遠慮せず簡潔とすることが粋(いき)とされた[7]背景が特徴とされる。
寄席の成立東京における代表的な寄席の一つ・新宿末廣亭上方における定席の一つ・天満天神繁昌亭

18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。幕臣狂歌師としても活躍していた木室七右衛門(白鯉館卯雲)は、京をはじめ各地で滑稽な話を収集し、『鹿の子餅』などの噺本にまとめて出版するなどした。

こうしたなか、天明1781年 - 1789年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけて、江戸では再び落語の流行がみられた[8]大工職人を本業としながらも、狂歌師や戯作者としても活躍した烏亭焉馬(初代)は天明6年(1786年)、江戸で新作落とし噺の会を主催して好評を博した[8]。その後、料理屋の2階などを会場として定期的に開かれるようになり、江戸噺は活況を呈するようになった[6]。焉馬はこれにより江戸落語中興の祖と称される[8]

寛政に入ると、大都市となった江戸では浄瑠璃小唄軍書読み説教などが流行し、聴衆を集めて席料をとるようになった。これは「寄せ場」「寄せ」と称され、現在の寄席の原型となった[8]。寛政3年(1791年)に大坂の岡本万作が江戸におもむき、神田に寄席の看板をかかげて江戸で初めて寄席興行をおこない、寄席色物が登場した[6][8]。落とし噺の分野では、寛政10年(1798年)、江戸の職人だった初代三笑亭可楽下谷(現台東区)で寄席をひらいた[8][注 2]

可楽の寄席興行そのものは必ずしも成功しなかったが、「謎解き」や、客が出した3つの言葉を噺の中にすべて登場させて一席にまとめる「三題噺」、さらに線香が1分(約3ミリメートル)燃え尽きるあいだに即興で短い落とし噺を演じる「一分線香即席噺」など趣向を凝らした名人芸で人気を得た[8]。また、多数の優秀な門人を育成し、江戸における職業落語家の嚆矢となった[6][8]

一方、上方では松田彌助(初代)が職業落語家のはしりであり、その門下からは松田彌七・2代目松田彌助・初代桂文治があらわれた。寛政6年(1794年)頃から活動を始めた初代文治(伊丹屋惣兵衛)は、大坂の坐摩神社境内に初めて常設の寄席を設けて興行したと記録されており、上方落語中興の祖と称されると同時に上方寄席の開祖でもある。また、当時さかんであった素人による座敷での素噺に対抗して、鳴物入り・道具入りの芝居噺を創作した。文治もまた、多数の優秀な門人を育て、桂派の祖となった。
江戸落語の隆盛


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