落語
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

また、多数の優秀な門人を育成し、江戸における職業落語家の嚆矢となった[6][8]

一方、上方では松田彌助(初代)が職業落語家のはしりであり、その門下からは松田彌七・2代目松田彌助・初代桂文治があらわれた。寛政6年(1794年)頃から活動を始めた初代文治(伊丹屋惣兵衛)は、大坂の坐摩神社境内に初めて常設の寄席を設けて興行したと記録されており、上方落語中興の祖と称されると同時に上方寄席の開祖でもある。また、当時さかんであった素人による座敷での素噺に対抗して、鳴物入り・道具入りの芝居噺を創作した。文治もまた、多数の優秀な門人を育て、桂派の祖となった。
江戸落語の隆盛

19世紀前葉の文化文政年間(1804年 - 1830年)には娯楽としての江戸落語が隆盛を極め、文政末期には江戸に125軒もの寄席があったといわれる[9]。そうしたなか、花形落語家として後世に名をのこす名人が何人かあらわれた。役者の身振りをまねるのが得意だった初代三遊亭圓生は、鳴り物を入れて、芝居がかりとなる芝居噺を始めた[9]。また、武士出身で浄瑠璃音楽のひとつ「常磐津」の太夫となった初代船遊亭扇橋は、落語に転身したのちも浄瑠璃のいろいろな節調を語り分けるのが巧みなところから、音曲噺を始めた[9]。さらに、初代林屋正蔵は、仕掛けや人形を用いる怪談噺を始め、「怪談の正蔵」と称されて人気を博した[9]。圓生・扇橋・正蔵はいずれも、上述した初代可楽の弟子であった経歴を有しており、かれらもまた多数の門人を育てた。同じ可楽門下で「可楽十哲」のひとりといわれる初代朝寝房夢羅久人情噺を初めて演じたといわれている[注 3]

現代では「色もの」といわれる各種の演芸もさかんになった。音曲を得意とした初代扇橋の弟子であった都々一坊扇歌(初代)は、三味線を弾きながら都々逸を歌い、人気を博した[9]。また、可楽門下の三笑亭可上は、さまざまな表情を描いた目の部分だけの仮面をかけて人物を描き分ける「百眼(ひゃくまなこ)」という芸を披露した[9]

ところが水野忠邦による天保の改革の一環として風俗取締令が発せられ、200軒以上に増えていた江戸の寄席が15軒に激減した。水野失脚後は禁令がゆるみ、開国期にあたる安政年間(1854年? 1860年)には江戸市中の寄席は170軒におよんだ。
幕末から明治へ

幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝は歴史的な名人として知られ、圓朝の高座を書き記した速記本は当時の文学、特に言文一致の文章の成立に大きな影響を与えた[10]

寄席にも近代化の波が押し寄せた。1876年(明治9年)4月、東京府権知事楠本正隆の名で、諸芸人に対し鑑札を発行し、税金を課すことを布告。これにより芸界の統一も不可欠となり、芸人仲間のうちで人望と実力のある三遊亭圓朝、3代目麗々亭柳橋6代目桂文治の3人が頭取として選ばれ、かれらが交代で月番で責任を負うシステムが作られた。くじ売りの禁止、シモがかったネタの制限など、警察による寄席の取締も徐々に厳しくなり、高座は健全化されていった。

上方では桂派三友派とがしのぎを削り、初代桂文團治2代目桂文枝3代目笑福亭松鶴ら名人上手が輩出した。

1903年(明治36年)には初めて落語のレコード録音がなされた[10]。速記本とレコード落語の流布は、気軽に寄席に通えない人びとが気軽に落語を楽しむことを可能にした。
大正から昭和の時代

1917年大正6年)8月には東京の柳派三遊派が合併し、4代目橘家圓蔵初代三遊亭圓右3代目柳家小さんら売れっ子たちが中心となり、大手の寄席28軒との月給制の契約を交わす演芸会社「東京寄席演芸株式会社」を旗揚げした。この月給制に反対し、従来どおりのワリ(給金制)で対抗するべく、5代目柳亭左楽は「三遊柳連睦会(通称、睦会)」を設立した。そののち、前者は翌年11月に分裂。「東京演芸合資会社」と名前を変え、一方では上野鈴本を中心とした一派により「落語席中立会」(通称、中立会)が結成され、これがのちに「東西落語会」(東西会)へと発展した。しかし、1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災を契機として三派合同の気運が生まれ、のちに合併して「東京落語協会」(現在の落語協会)が設立された[10]

1925年(大正14年)にラジオ放送が始まると、落語はラジオからも流れるようになった[10]。また、それまでは落語を「おとしばなし」と読んでいたのを、「らくご」と読むようになったのもこれ以降である[11]1930年(昭和5年)には「日本芸術協会」(現在の落語芸術協会)が設立されている[10]

1930年代から1945年(昭和20年)にかけて、満州事変より太平洋戦争終結までの時期には国家による統制が強化され、時局にそぐわないとされた演目の上演が自粛されたり(禁演落語五十三種)、戦争遂行の観点に沿って演目の改編や新作が行われ、寄席やラジオ、レコード等各種メディアを通じて広められた(国策落語)。また、太平洋戦争終結後の連合国軍占領下でも、連合国軍最高司令官総司令部の方針に基づき、民主化に不適当とみなされた演目の上演が自粛された(自粛禁演落語廿七種[12]

上方落語は、大正から昭和にかけて初代桂春團治らが活躍したが、昭和期に入ると漫才に押されて一時衰退する。戦中戦後にかけて、5代目笑福亭松鶴4代目桂米團治ら「楽語荘」によってその命脈が辛うじて保たれたのち、1957年(昭和32年)に上方落語協会が設立され、今日の隆盛につながっている。

戦後の1950年代にはラジオで落語がブームとなった[10]。また、大学のサークル活動としての落語研究会(通称「落研(おちけん)」)が生まれたのは昭和20年代頃である[注 4]

1953年(昭和28年)、テレビ放送が始まった[10]1960年代には落語ブームが起こるが、これはテレビ演芸ブームによってもたらされたものであった[13]。なかでも初代林家三平は各種のテレビ番組で活躍し、「爆笑王」の異名をとった[10]1966年(昭和41年)には日本テレビ系で『笑点』の放送が始まっている[10]

1978年(昭和53年)、落語協会の運営方針をめぐって協会内で対立が生じ、6代目三遊亭圓生古今亭志ん朝(3代目)、立川談志7代目橘家圓蔵と弟子の月の家圓鏡(8代目橘家圓蔵)などが脱退した(落語協会分裂騒動[10]。しかし、圓生以外は結局落語協会に戻り、圓生一門で「落語三遊協会」を設立した。圓生没後は三遊協会は解散となり、5代目三遊亭圓楽の一門のみが「大日本落語すみれ会」(現在の円楽一門会)として独立し、それ以外は落語協会に復帰した。1983年(昭和58年)には立川談志一門が真打昇格の方針を巡って落語協会を脱退、「落語立川流」を創始して、みずから家元となった。現在、東京では落語協会・落語芸術協会・立川流・円楽一門会の四派体制がつづいている[10]
平成のブーム

平成に入って、1993年(平成5年)には初の「女真打」が誕生し、1995年(平成7年)には東京の5代目柳家小さん、翌1996年には上方の3代目桂米朝がそれぞれ「人間国宝」に選ばれた[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:163 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef