落語
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

龍谷大学の角岡賢一は、上方落語の「滑稽噺」について、「生業にかかわるもの」(日常性)と「道楽にかかわるもの」(非日常性)に大別し、さらに細分化を試みている[15]

人情の機微を描くことを目的としたものを「人情噺」といい、親子夫婦など人の情愛に主眼が置かれている[17]。人情噺はたいていの場合続きものによる長大な演目で、かつては主任(トリ)として寄席に出た噺家が10日間の興行のあいだ連続して演じる作品であったが、現在ではその区切りのよい一部分が取り出されて演じられることが多い[17]。こうしたことから、人情噺にあっては、「落ち」はかならずしも必要ではない。

「落とし噺」や「人情噺」が一般に素で(語り中心で)上演される「素噺(すばなし)」であるのに対して、芝居のような書割や音曲を利用し、場合によっては演者が立って芝居のような見得をおこなったりする演目を「芝居噺」という。特に幽霊が出てくるような「怪談噺」は、途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。怪談噺もまた、笑いでサゲをつけるという落語の典型からは外れている[15]

広義には芝居を題材にしたり、パロディにしたりしている演目を「芝居噺」と呼ぶ場合もある。この場合には、全体として「落とし噺」の構造を取り、なかにところどころ歌舞伎ふうの台詞廻しが混じる程度で、立って所作を行うことはない。なお、桂米朝(3代目)によれば、上方落語においては、下座の鳴物囃子を利用する落語はいくらでもあるので、少しくらい演出が芝居がかりになったくらいでは「芝居噺」とは呼ばれないとのことであり、そこから角岡賢一は、本来の「芝居噺」の定義はごく狭いものであったと結論づけている[15][18][注 6]

大げさな所作が加わらなくても、音曲を利用して話をすすめてゆくネタもあり、これらを「音曲噺」と称する。ただし、上述のように上方では伝統的に噺の途中に「はめもの」として音曲が利用されることが多いため、「音曲噺」というカテゴリーは江戸落語に限られる。
難易度による分類

難易度の高さにより、初級者向けの「前座噺」「旅のネタ」と称される演目、難易度のきわめて高い「大ネタ」と称される演目がある。

前座が初めに習い覚える話を「前座ばなし」と呼ぶ。多くは口慣らしや口捌きを兼ねた単純で短い、しかし基礎的な技術を養うのに適したネタで、二つ目真打によって演じられることもあるが、比較的簡単な軽い話とみなされるためにトリの演目になることはない。

逆に、長編大作や人情噺などのうちで特に難易度の高い作品を「大ネタ」と称することがあり、もっぱらトリの演目となる。

なお、上方では前座噺として長い続きものの「旅のネタ」を行うことが多い。これは、噺がどの部分で切っても次の演者を迎えられる構成になっているためだといわれる。
「落ち」の種類による分類詳細は「落ち」を参照

大きくは、「地口オチ」と「考えオチ」がある[15]

また、にわか落ち(地口オチ)、考え落ち、ひょうし落ち、逆さ落ち、まわり落ち、見立て落ち、まぬけ落ち、じこく落ち、トントン落ち、とたん落ち、ぶっつけ落ち、しぐさ落ちなどに細分する分類もある。これは、必ずしも十分な分類法ではないが、現在も幅広く用いられている。

このほかに桂枝雀による四分類法(ドンデン、謎解き、へん、合わせ)がある[19]
噺の構成

マクラ、本題、落ち(サゲ)が基本構造となっている。
マクラ

本題への導入部である[3][20]。自己紹介をしたり、本題に入るための流れを作ったり、また、本題でわかりにくい言葉の説明をさりげなく入れたりする[3][20]。落語は「目の前の観客に対して語りかける芸能」である[20]。一般的に、落語家はいきなり落語の演目に突入することはほとんどなく、まずは聴衆に語りかける雰囲気をつくるために挨拶したり、世間話をしたり、軽い小咄を披露したりしてから本題に入っていく[20]。マクラは、噺の本題とセットになって伝承されてきているものが少なくない[20]

マクラの果たす役割は、小咄などで笑わせて、本題の前に聴衆をリラックスさせる、本題に関連する話題で聴衆の意識を物語の現場に引きつける、「落ち(サゲ)」への伏線を張る、などが挙げられる。古典落語の演題の中には、現在では廃れてしまった風習や言葉を扱うものがあり、それらに関する予備知識がないと、話全体や落ちが充分に楽しめないことがあり、6代目三遊亭圓生は、このような「解説のためのマクラ」の達人であった[20]

優れた演じ手はマクラも個性的であり、工夫を凝らしている[20]。近年は、マクラがそれ自体エンターテイメントになっているような「マクラが面白い落語家」が増えている[20][注 7]

寄席など、出演時間が短い場合に、マクラだけで高座を降りることもある。
本題

笑いが主体の滑稽噺が大半を占め、人情の機微をえがく人情噺がそれに次ぐ[17]。人情噺は、「大ネタ」といわれる長い噺が多い。ほかに幽霊などの怪異を描く怪談噺などがある[17](詳細は前節参照)。

本来の筋にはない、演者によって挿入されたおかしみのある部分を「くすぐり」と呼ぶ。一般的には話の筋から大きく外れないくすぐりが好まれる。
落ち(サゲ)

滑稽噺における噺の締めくくり、笑いをともなう結末のことであり、落語が、元来「落とし噺」と称されてきた所以である[3]。「落ち(オチ)」は、現在では日常語としても当たり前に使用されている[21]。落語においては、これを「サゲ」という場合がある。

人情噺の終わり方は「落ち」ではなく、「…という一席でございます」など説明のかたちで締める[3]。また、寄席などでは演じ手の持ち時間が決まっていることが多く、時代的に判り難い「落ち」が出て来たなどの関係で、本来の「落ち」まで行かず、適当にキリのよいところで話を切り上げることも多い[3][21]

これについては、広瀬和生は必ずしも「オチ」イコール「サゲ」ではないとしている[21]。説明で終わったり、本題の途中で中断したりしたものを「オチ」とは呼べないが、演じ手が落語の締めくくりのフレーズを言うことを「サゲる」と表現することから、広瀬は純粋な「オチ」も含めた締めくくりの言葉全般を「サゲ」としている[21]

なお、滑稽噺の「落ち」は、古典落語の場合、かつては「洒落」として通じ、当時は面白かったかもしれないが、今日では死語になっていたり、理解不能な概念になってしまっているものも少なくない。「サゲ」において重要なことは、聴衆に対し「噺はこれでおしまい」と納得させることと考えられるので、現代人が納得できるような「落ち(サゲ)」のあり方が求められる[21]
表現の要素

落語において用いられる表現の要素は、

言葉

音声として発せられる口頭語。


仕草

最小限のものに限られ、基本的に立ち上って歩くことはない。


仕草のための小道具

扇子手ぬぐいの2種(上方落語は見台と小拍子、張扇を加え5種)に限定される。


そのほか特殊な演目における付随的要素

上方落語・音曲噺のはめもの、芝居噺の書割・ツケなど。


口演には直接関係ないが、落語の演ぜられる場を構成する要素

出囃子、噺家の衣装着物)、座布団、高座、緋毛氈、屏風めくり、上方落語の見台・膝隠しなど。

の5要素に区分することができる[22]。このうち特に重要なのは「言葉」と「仕草」であり、これが落語という芸の根幹を成しているといえる。

以下、言葉と仕草という要素を中心に説明してゆく。
言葉

一般的に古典落語には定められた口演台本があり、噺家はこれを記憶して高座で再現する(ただし、必ずしも筆記されたものとは限らない。多くの場合は口伝えである)。すなわち落語のもっとも基礎的構成要素は、これらの台本を含めた「言葉」であるといえる。言葉の側面から見た落語には以下のような特徴が指摘できる。

地の文と会話文(対話文)で構成されているが、噺の勘所にくると会話文によってテンポよく話を進めてゆき、説明的な地の文が少なくなる(この点が話芸としての講談との相違である)。

地の文の省略によって伝えきれないディテール(登場人物の細かい気持の変化や感情、会話をとりまく情景)は仕草によって補われて表現される。

登場人物の多寡にかかわらず全てを一人で演じ、役割分担ができない。このため声調、言葉づかい、話しかた、間のとりかた、速さなどによって登場人物の個性を印象づける工夫がなされる[22]

会話文から地の文への移りやその逆の場面、あるいはその他大勢的な多人数の会話においては、だれの視点から語られているのか判然としない語りが存在したり、気づかない間に語りの担い手が入れ替わったりするが、それが聴衆には不自然に聞こえない。

演じ分けについては、言葉のニュアンスや使い方によって登場人物の個性が浮き上がる工夫が必要であり、江戸弁にきびしかった10代目桂文治は、つねづね「職人言葉と商人言葉ではまったく違うもんだ」と語っていた[22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:163 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef