落語
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彦八は生玉神社境内で小屋掛けの辻噺をおこない、名古屋でも公演した[5]。『寿限無』の元になる話を作ったのが、この初代彦八であるといわれており、彼の出身地の大阪市では毎年9月に「彦八まつり」がおこなわれるほど上方演芸史において重要人物であるとされる[6]

同じころ、江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門芝居小屋風呂屋に呼ばれ、あるいは酒宴など、さまざまな屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始め、これが講談と並び評判となった。

時期をほぼ同じくして三都で活躍した上記3名は、いずれも不特定多数の観客から収入を得ていることから後世では噺家の祖とされる。ただし、江戸の武左衛門が些細なことから流罪に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気は下火となった[5]

なお、上方落語では今日「見台(けんだい)」という小型の机を用い、小拍子で打ち鳴らして音をたてる演出がある。これは京・大坂での大道芸として発展した「辻噺」の名残りといわれている[5][注 1]。噺を聞く事が目的でない通行人の客足をとめるため、喧騒に負けず目立つ必要があったためと考えられている[7]。さらには上方言葉で聞き手に語りかけ、旺盛なサービス精神で愛嬌を振るまうなどの親近感を出すための多彩な工夫も特徴とされる。

対して江戸落語(その後の東京落語)は、屋内でもともとは少人数を相手にした噺であり、噺家も聞き手に遠慮せず簡潔とすることが粋(いき)とされた[7]背景が特徴とされる。
寄席の成立東京における代表的な寄席の一つ・新宿末廣亭上方における定席の一つ・天満天神繁昌亭

18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。幕臣狂歌師としても活躍していた木室七右衛門(白鯉館卯雲)は、京をはじめ各地で滑稽な話を収集し、『鹿の子餅』などの噺本にまとめて出版するなどした。

こうしたなか、天明1781年 - 1789年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけて、江戸では再び落語の流行がみられた[8]大工職人を本業としながらも、狂歌師や戯作者としても活躍した烏亭焉馬(初代)は天明6年(1786年)、江戸で新作落とし噺の会を主催して好評を博した[8]。その後、料理屋の2階などを会場として定期的に開かれるようになり、江戸噺は活況を呈するようになった[6]。焉馬はこれにより江戸落語中興の祖と称される[8]

寛政に入ると、大都市となった江戸では浄瑠璃小唄軍書読み説教などが流行し、聴衆を集めて席料をとるようになった。これは「寄せ場」「寄せ」と称され、現在の寄席の原型となった[8]。寛政3年(1791年)に大坂の岡本万作が江戸におもむき、神田に寄席の看板をかかげて江戸で初めて寄席興行をおこない、寄席色物が登場した[6][8]。落とし噺の分野では、寛政10年(1798年)、江戸の職人だった初代三笑亭可楽下谷(現台東区)で寄席をひらいた[8][注 2]

可楽の寄席興行そのものは必ずしも成功しなかったが、「謎解き」や、客が出した3つの言葉を噺の中にすべて登場させて一席にまとめる「三題噺」、さらに線香が1分(約3ミリメートル)燃え尽きるあいだに即興で短い落とし噺を演じる「一分線香即席噺」など趣向を凝らした名人芸で人気を得た[8]。また、多数の優秀な門人を育成し、江戸における職業落語家の嚆矢となった[6][8]

一方、上方では松田彌助(初代)が職業落語家のはしりであり、その門下からは松田彌七・2代目松田彌助・初代桂文治があらわれた。寛政6年(1794年)頃から活動を始めた初代文治(伊丹屋惣兵衛)は、大坂の坐摩神社境内に初めて常設の寄席を設けて興行したと記録されており、上方落語中興の祖と称されると同時に上方寄席の開祖でもある。また、当時さかんであった素人による座敷での素噺に対抗して、鳴物入り・道具入りの芝居噺を創作した。文治もまた、多数の優秀な門人を育て、桂派の祖となった。
江戸落語の隆盛

19世紀前葉の文化文政年間(1804年 - 1830年)には娯楽としての江戸落語が隆盛を極め、文政末期には江戸に125軒もの寄席があったといわれる[9]。そうしたなか、花形落語家として後世に名をのこす名人が何人かあらわれた。役者の身振りをまねるのが得意だった初代三遊亭圓生は、鳴り物を入れて、芝居がかりとなる芝居噺を始めた[9]。また、武士出身で浄瑠璃音楽のひとつ「常磐津」の太夫となった初代船遊亭扇橋は、落語に転身したのちも浄瑠璃のいろいろな節調を語り分けるのが巧みなところから、音曲噺を始めた[9]。さらに、初代林屋正蔵は、仕掛けや人形を用いる怪談噺を始め、「怪談の正蔵」と称されて人気を博した[9]。圓生・扇橋・正蔵はいずれも、上述した初代可楽の弟子であった経歴を有しており、かれらもまた多数の門人を育てた。同じ可楽門下で「可楽十哲」のひとりといわれる初代朝寝房夢羅久人情噺を初めて演じたといわれている[注 3]

現代では「色もの」といわれる各種の演芸もさかんになった。音曲を得意とした初代扇橋の弟子であった都々一坊扇歌(初代)は、三味線を弾きながら都々逸を歌い、人気を博した[9]。また、可楽門下の三笑亭可上は、さまざまな表情を描いた目の部分だけの仮面をかけて人物を描き分ける「百眼(ひゃくまなこ)」という芸を披露した[9]

ところが水野忠邦による天保の改革の一環として風俗取締令が発せられ、200軒以上に増えていた江戸の寄席が15軒に激減した。水野失脚後は禁令がゆるみ、開国期にあたる安政年間(1854年? 1860年)には江戸市中の寄席は170軒におよんだ。
幕末から明治へ

幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝は歴史的な名人として知られ、圓朝の高座を書き記した速記本は当時の文学、特に言文一致の文章の成立に大きな影響を与えた[10]

寄席にも近代化の波が押し寄せた。1876年(明治9年)4月、東京府権知事楠本正隆の名で、諸芸人に対し鑑札を発行し、税金を課すことを布告。これにより芸界の統一も不可欠となり、芸人仲間のうちで人望と実力のある三遊亭圓朝、3代目麗々亭柳橋6代目桂文治の3人が頭取として選ばれ、かれらが交代で月番で責任を負うシステムが作られた。くじ売りの禁止、シモがかったネタの制限など、警察による寄席の取締も徐々に厳しくなり、高座は健全化されていった。

上方では桂派三友派とがしのぎを削り、初代桂文團治2代目桂文枝3代目笑福亭松鶴ら名人上手が輩出した。

1903年(明治36年)には初めて落語のレコード録音がなされた[10]。速記本とレコード落語の流布は、気軽に寄席に通えない人びとが気軽に落語を楽しむことを可能にした。
大正から昭和の時代

1917年大正6年)8月には東京の柳派三遊派が合併し、4代目橘家圓蔵初代三遊亭圓右3代目柳家小さんら売れっ子たちが中心となり、大手の寄席28軒との月給制の契約を交わす演芸会社「東京寄席演芸株式会社」を旗揚げした。この月給制に反対し、従来どおりのワリ(給金制)で対抗するべく、5代目柳亭左楽は「三遊柳連睦会(通称、睦会)」を設立した。


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