落語
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また、落語の衰退を嘆いた立川談志門下からは、新作も古典も演じ、古典も現代的視点から語る立川志の輔や古典落語にコントの手法を導入し映画(洋画)の落語化を多数手がける立川志らく、「改作落語」で知られる立川談笑らが登場し、上方では6代 桂文枝が三枝時代から「創作落語」の名で自作の新作落語を多数口演し、聴衆を沸かせている[13][16]。こうして、「古典」「新作」の厳しい区別や両者の不毛な対立、あるいは双方に対する先入観・偏見は寄席の番組などではしだいに過去のものになりつつあるが[14]、地方のホール落語会などでは、古典落語=落語であるという固定観念はぬぐえていない。
演出の方法や構成による分類

落とし噺(滑稽噺)と人情噺に大別され、他に芝居噺・怪談噺・音曲噺がある。

古典落語のうち、滑稽を中心とし、噺の最後に「落ち」のあるものを「落とし噺」という。これが「落語」の本来の呼称であったが、のちに発展を遂げた「人情噺」や「怪談噺」と明確に区別する必要から「滑稽噺」の呼称が生まれた。今日でも、落語の演目のなかで圧倒的多数を占めるのが滑稽噺である[15]龍谷大学の角岡賢一は、上方落語の「滑稽噺」について、「生業にかかわるもの」(日常性)と「道楽にかかわるもの」(非日常性)に大別し、さらに細分化を試みている[15]

人情の機微を描くことを目的としたものを「人情噺」といい、親子夫婦など人の情愛に主眼が置かれている[17]。人情噺はたいていの場合続きものによる長大な演目で、かつては主任(トリ)として寄席に出た噺家が10日間の興行のあいだ連続して演じる作品であったが、現在ではその区切りのよい一部分が取り出されて演じられることが多い[17]。こうしたことから、人情噺にあっては、「落ち」はかならずしも必要ではない。

「落とし噺」や「人情噺」が一般に素で(語り中心で)上演される「素噺(すばなし)」であるのに対して、芝居のような書割や音曲を利用し、場合によっては演者が立って芝居のような見得をおこなったりする演目を「芝居噺」という。特に幽霊が出てくるような「怪談噺」は、途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。怪談噺もまた、笑いでサゲをつけるという落語の典型からは外れている[15]

広義には芝居を題材にしたり、パロディにしたりしている演目を「芝居噺」と呼ぶ場合もある。この場合には、全体として「落とし噺」の構造を取り、なかにところどころ歌舞伎ふうの台詞廻しが混じる程度で、立って所作を行うことはない。なお、桂米朝(3代目)によれば、上方落語においては、下座の鳴物囃子を利用する落語はいくらでもあるので、少しくらい演出が芝居がかりになったくらいでは「芝居噺」とは呼ばれないとのことであり、そこから角岡賢一は、本来の「芝居噺」の定義はごく狭いものであったと結論づけている[15][18][注 6]

大げさな所作が加わらなくても、音曲を利用して話をすすめてゆくネタもあり、これらを「音曲噺」と称する。ただし、上述のように上方では伝統的に噺の途中に「はめもの」として音曲が利用されることが多いため、「音曲噺」というカテゴリーは江戸落語に限られる。
難易度による分類

難易度の高さにより、初級者向けの「前座噺」「旅のネタ」と称される演目、難易度のきわめて高い「大ネタ」と称される演目がある。

前座が初めに習い覚える話を「前座ばなし」と呼ぶ。多くは口慣らしや口捌きを兼ねた単純で短い、しかし基礎的な技術を養うのに適したネタで、二つ目真打によって演じられることもあるが、比較的簡単な軽い話とみなされるためにトリの演目になることはない。

逆に、長編大作や人情噺などのうちで特に難易度の高い作品を「大ネタ」と称することがあり、もっぱらトリの演目となる。

なお、上方では前座噺として長い続きものの「旅のネタ」を行うことが多い。これは、噺がどの部分で切っても次の演者を迎えられる構成になっているためだといわれる。
「落ち」の種類による分類詳細は「落ち」を参照

大きくは、「地口オチ」と「考えオチ」がある[15]

また、にわか落ち(地口オチ)、考え落ち、ひょうし落ち、逆さ落ち、まわり落ち、見立て落ち、まぬけ落ち、じこく落ち、トントン落ち、とたん落ち、ぶっつけ落ち、しぐさ落ちなどに細分する分類もある。これは、必ずしも十分な分類法ではないが、現在も幅広く用いられている。

このほかに桂枝雀による四分類法(ドンデン、謎解き、へん、合わせ)がある[19]
噺の構成

マクラ、本題、落ち(サゲ)が基本構造となっている。
マクラ

本題への導入部である[3][20]。自己紹介をしたり、本題に入るための流れを作ったり、また、本題でわかりにくい言葉の説明をさりげなく入れたりする[3][20]。落語は「目の前の観客に対して語りかける芸能」である[20]。一般的に、落語家はいきなり落語の演目に突入することはほとんどなく、まずは聴衆に語りかける雰囲気をつくるために挨拶したり、世間話をしたり、軽い小咄を披露したりしてから本題に入っていく[20]。マクラは、噺の本題とセットになって伝承されてきているものが少なくない[20]

マクラの果たす役割は、小咄などで笑わせて、本題の前に聴衆をリラックスさせる、本題に関連する話題で聴衆の意識を物語の現場に引きつける、「落ち(サゲ)」への伏線を張る、などが挙げられる。古典落語の演題の中には、現在では廃れてしまった風習や言葉を扱うものがあり、それらに関する予備知識がないと、話全体や落ちが充分に楽しめないことがあり、6代目三遊亭圓生は、このような「解説のためのマクラ」の達人であった[20]

優れた演じ手はマクラも個性的であり、工夫を凝らしている[20]。近年は、マクラがそれ自体エンターテイメントになっているような「マクラが面白い落語家」が増えている[20][注 7]

寄席など、出演時間が短い場合に、マクラだけで高座を降りることもある。
本題

笑いが主体の滑稽噺が大半を占め、人情の機微をえがく人情噺がそれに次ぐ[17]。人情噺は、「大ネタ」といわれる長い噺が多い。ほかに幽霊などの怪異を描く怪談噺などがある[17](詳細は前節参照)。

本来の筋にはない、演者によって挿入されたおかしみのある部分を「くすぐり」と呼ぶ。一般的には話の筋から大きく外れないくすぐりが好まれる。
落ち(サゲ)

滑稽噺における噺の締めくくり、笑いをともなう結末のことであり、落語が、元来「落とし噺」と称されてきた所以である[3]。「落ち(オチ)」は、現在では日常語としても当たり前に使用されている[21]。落語においては、これを「サゲ」という場合がある。

人情噺の終わり方は「落ち」ではなく、「…という一席でございます」など説明のかたちで締める[3]。また、寄席などでは演じ手の持ち時間が決まっていることが多く、時代的に判り難い「落ち」が出て来たなどの関係で、本来の「落ち」まで行かず、適当にキリのよいところで話を切り上げることも多い[3][21]

これについては、広瀬和生は必ずしも「オチ」イコール「サゲ」ではないとしている[21]。説明で終わったり、本題の途中で中断したりしたものを「オチ」とは呼べないが、演じ手が落語の締めくくりのフレーズを言うことを「サゲる」と表現することから、広瀬は純粋な「オチ」も含めた締めくくりの言葉全般を「サゲ」としている[21]

なお、滑稽噺の「落ち」は、古典落語の場合、かつては「洒落」として通じ、当時は面白かったかもしれないが、今日では死語になっていたり、理解不能な概念になってしまっているものも少なくない。「サゲ」において重要なことは、聴衆に対し「噺はこれでおしまい」と納得させることと考えられるので、現代人が納得できるような「落ち(サゲ)」のあり方が求められる[21]
表現の要素

落語において用いられる表現の要素は、

言葉

音声として発せられる口頭語。


仕草

最小限のものに限られ、基本的に立ち上って歩くことはない。


仕草のための小道具

扇子手ぬぐいの2種(上方落語は見台と小拍子、張扇を加え5種)に限定される。


そのほか特殊な演目における付随的要素

上方落語・音曲噺のはめもの、芝居噺の書割・ツケなど。


口演には直接関係ないが、落語の演ぜられる場を構成する要素

出囃子、噺家の衣装着物)、座布団、高座、緋毛氈、屏風めくり、上方落語の見台・膝隠しなど。

の5要素に区分することができる[22]


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