落語家
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立川談志は著書において、橘ノ圓福[2]および、「こぶ正」こと林家正吉[3]という2人の「万年前座」の存在について証言している。

上方では、「へたり」は寄席囃子を専門に務める人を意味し、重宝された。主なへたりには三升小三戎橋松竹)・桂右之助千日劇場・旧うめだ花月)・桂文蝶千日劇場)・桂團治道頓堀角座)・橘家つばめ(神戸松竹座)・2代目三升紋三郎新花月)などがいた。

また二つ目が真打昇進を諦め再び前座に戻ることを戻り前座という。

現在はこのようなへたり、戻り前座になるものは全くいないといってよい。二つ目が他の組織に移籍したことでその組織で前座修業をやり直す場合[注釈 1]や、二つ目で廃業したのち復帰し、再度前座から修業し直すといった場合は、その落語家をへたりや戻り前座とは呼ばない。
二つ目

前座と真打の間。前座に続き、二番目に高座に上がるため「二つ目」と呼ばれる[注釈 2][4]。かつての上方落語では中座(なかざ)と呼んだ。

落語家社会の中でようやく一人前とみなされる。自分の労力と時間を全て自分のためにだけ使うことが許される。師匠宅の雑用も寄席での裏方仕事もしなくてよい[注釈 3]。以下のことが許される。

紋付を着ること。

番組に名前を出す。

自分の手拭を昇進の挨拶に配ること。

飲酒・喫煙(一門による)

自分で落語会を開催すること。

自分でテレビ・ラジオ出演や営業などへの売り込みをすること。また実際に出演すること[注釈 4]

正規の落語家として、寄席で落語をして割がもらえるようになる。しかし、定席への出演機会は大変限られているので、仕事は基本的に自分で探してこなければならなくなる。さもなくば本当に仕事がない状態となる。つまり自営業である。前座でやってきた雑用が免除される代わりに小遣いもなくなるので、経済的には苦しいと言われる。かつてはヨビと呼ばれる「仕事」が存在した。これは、代演要員として寄席に出勤するというもので、抜いた落語家の穴が埋まらない時に高座に上がれる。ただし平成に入って以降、真打ちの数が増大したため、二つ目のヨビ制度は2024年現在ほぼ見られない。

一部を除いて、二つ目までは自身の師匠が死去した場合には、基本的に別の真打の門下に移ることになっている[注釈 5]
真打「真打」も参照

真打の語は、「(蝋燭の)芯を打つ」ことから転じた。蝋燭は江戸時代の室内照明であり、それを打つ=消すのは最後に上がる出番の落語家が演じ終わってからである。つまり主任(とり)のみが消すことができる=芯を打てる。

真打は、その名の通り寄席で主任(とり)を務めることができる資格が与えられるほか、師匠と敬称で呼ばれる[注釈 6]。また弟子をとることが許される[注釈 7]

真打昇進の際には各席において特別興行となり、新真打本人がその芝居の主任となる。そして真打披露目が行われ口上が述べられる。これがなければ昇進したことにならない。つまり、真打昇進と興行とは不可分である。興行中は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}終演後に[疑問点ノート]真打本人が全経費を払う飲み会が始まる。出費はかなりのもの(特に単独での昇進披露興行の場合)になるが、反面、お旦(芸人のスポンサー)からのご祝儀が見込める。

在京落語団体のうち、落語協会落語芸術協会円楽一門会落語立川流の出演はまれである)の真打昇進者は合同で日本テレビの演芸番組『笑点』の前半の演芸コーナーにおいて「真打昇進披露口上」に出演し、披露口上を述べることが慣例となっている。コロナ禍のため、2020年から2023年7月2日まで同番組内での昇進披露は行われず[注釈 8]、BS日テレ『笑点特大号』で記者会見やパーティー・公演などを紹介する形となっていた[6]

2022年6月に真打に昇進した三遊亭一太郎六代目三遊亭円楽の長男)の場合は、声優としての活動が主で落語家としての活動はほとんどしていないという事情もあり「披露目はやらない、手ぬぐいや扇子も作らない、祝儀ももらわない」という形での異例の形となった[注釈 9]

1980年代半ばころから、落語協会、落語芸術協会ともに、所属する落語家の半数以上を真打が占めるようになり、制度としては形骸化しているとの意見もある。
問題点

戦後、真打昇進制度は数度変わった。しかしその選考基準が不明瞭であるとする批判が一貫してある。これがひいては落語家内部の対立の原因となっている。

真打制度は香盤(同一協会内の落語家間の序列)と密接に関係している。真打昇進の順番、すなわち真打昇進の早い遅いによって真打たちの香盤が決定される。真打昇進以降は、経年により人気、実力が変動することがあっても、基本的に順位は入れ替わらない[注釈 10]
戦後の騒動
落語協会分裂騒動
1978年(昭和53年)、六代目三遊亭圓生落語協会理事会において、当時の常任理事であった三代目三遊亭圓歌四代目三遊亭金馬五代目春風亭柳朝の更迭、大量真打昇進の反対の動議を提出したが棄却されたことに起因しており、このことが後の真打昇進試験制度設立につながる。結果的に圓生と五代目三遊亭圓楽を中心とする直弟子の一門が離脱し「落語三遊協会」を創設した[注釈 11]が、業界内の支持を得られず、東都の定席寄席4か所からいずれも締め出しとなった。結果的に圓生の急死により落語三遊協会は瓦解し、圓楽一門(その後「大日本落語すみれ会」、後の円楽一門会を設立)以外は落語協会に復帰した。
落語立川流の創設
上記の落語協会分裂騒動では圓生らに呼応する形で離脱の可能性もあったが、結局落語協会に残留した七代目立川談志であったが、1983年(昭和58年)に一門ごと脱会し、立川流を創設。昇進試験をめぐり落語協会主流派と談志一門が対立したことが理由とされる。この事件は試験制度による改革も決して業界全体を満足させるものではないことを証明した(これに伴い昇進試験制度は1987年を最後に廃止され、現在は年功序列を基本しつつ、一部の優れた者については抜擢での真打昇進が運用されている。真打#抜擢真打を参照)。

この2騒動は真打制度の問題点が明らかになった一方、地方でのホール落語の開催増加や団体に所属しないフリーランスの落語家の登場など、落語そのものの幅を大きく広げることともなった。
上方・大阪落語の身分制度

真打制度は戦前には上方にも存在した。しかし、戦中から終戦直後の時期において大阪では落語より漫才が好まれたこともあり、事実上、上方落語が崩壊していた時期に消滅した。その真打制度は上方落語協会で1977年(昭和52年)2月に一時復活して公表もされた。

2012年現在は制度として事実上消滅している。内部の落語家ランク(例えば協会費のランク)も他の基準(年功序列)で決定している。また大阪では、香盤は内部で存在している(かつて真打のみ一回だけ公表もされた)ものの、現在では外部には一切非公開となっている。

当時の会長六代目笑福亭松鶴は「真打にふさわしいかどうかはお客様が決めること(であり、真打制度に胡坐をかいて落語家サイドが真打を客に押し売りするのはおかしい)」と言っている[要出典]。その後、定席天満天神繁昌亭開設時に、真打制度復活が論議されたが見送られている。上方落語ならではの自由な気風を損ねるというのが、真打制度非導入の理由であった。このこともあり、主に上方落語四天王(松鶴・三代目桂米朝五代目桂文枝三代目桂春団治)の弟子には、寄席やテレビなどで早くに知名度をあげ、入門から7?10年程度で弟子を採る者も多くいた[注釈 12]。なお、上方落語では修業は年季奉公のシステムであり、年季明けとともに独り立ちとなる。真打の代替としてコンクールなどの各賞の受賞がステイタスの一つとなっており、受賞記念に定席となる天満天神繁盛亭および神戸新開地喜楽館で1週間主任を務める。

また、修業中に師匠が死去しても、別の師匠の元に移籍するというようなことがない。代表的な例には六代目松鶴の最後の弟子、笑福亭鶴二がおり、入門から1年も経たずに師匠松鶴が死去し、兄弟子にあたる笑福亭松葉(贈・七代目笑福亭松鶴)らの指導を仰いだが、現在でも「松鶴の弟子」として活動している。ただし全員がその限りではなく、東京のように元の師匠の兄弟弟子などに移籍する場合も稀にある。後者の例では、五代目林家小染などがいる。

真打・香盤問題は、上方落語協会では東京よりもナイーブな理由(ほとんど口喧嘩)で大物が脱退したことすらある[注釈 13]

香盤制度・真打制度は完全な実力主義でもないので、『急激に売れた人』『若い時から売れっ子になった人』に対する処遇が難しいというのも理由の一つである。真打昇進と真打昇進披露興行はリンクさせるが、上方落語協会(繁昌亭)は(香盤と関係なく)「賞」を落語家に受賞させそれと興行をリンクしている。東京の協会では幹部を話し合いで選ぶが、上方落語協会では協会員による直接選挙(正式には協会員の互選により会長候補者を選出する選挙[7])で選ぶ。


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