落語家
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コロナ禍のため、2020年から2023年7月2日まで同番組内での昇進披露は行われず[注釈 8]、BS日テレ『笑点特大号』で記者会見やパーティー・公演などを紹介する形となっていた[6]

2022年6月に真打に昇進した三遊亭一太郎六代目三遊亭円楽の長男)の場合は、声優としての活動が主で落語家としての活動はほとんどしていないという事情もあり「披露目はやらない、手ぬぐいや扇子も作らない、祝儀ももらわない」という形での異例の形となった[注釈 9]

1980年代半ばころから、落語協会、落語芸術協会ともに、所属する落語家の半数以上を真打が占めるようになり、制度としては形骸化しているとの意見もある。
問題点

戦後、真打昇進制度は数度変わった。しかしその選考基準が不明瞭であるとする批判が一貫してある。これがひいては落語家内部の対立の原因となっている。

真打制度は香盤(同一協会内の落語家間の序列)と密接に関係している。真打昇進の順番、すなわち真打昇進の早い遅いによって真打たちの香盤が決定される。真打昇進以降は、経年により人気、実力が変動することがあっても、基本的に順位は入れ替わらない[注釈 10]
戦後の騒動
落語協会分裂騒動
1978年(昭和53年)、六代目三遊亭圓生落語協会理事会において、当時の常任理事であった三代目三遊亭圓歌四代目三遊亭金馬五代目春風亭柳朝の更迭、大量真打昇進の反対の動議を提出したが棄却されたことに起因しており、このことが後の真打昇進試験制度設立につながる。結果的に圓生と五代目三遊亭圓楽を中心とする直弟子の一門が離脱し「落語三遊協会」を創設した[注釈 11]が、業界内の支持を得られず、東都の定席寄席4か所からいずれも締め出しとなった。結果的に圓生の急死により落語三遊協会は瓦解し、圓楽一門(その後「大日本落語すみれ会」、後の円楽一門会を設立)以外は落語協会に復帰した。
落語立川流の創設
上記の落語協会分裂騒動では圓生らに呼応する形で離脱の可能性もあったが、結局落語協会に残留した七代目立川談志であったが、1983年(昭和58年)に一門ごと脱会し、立川流を創設。昇進試験をめぐり落語協会主流派と談志一門が対立したことが理由とされる。この事件は試験制度による改革も決して業界全体を満足させるものではないことを証明した(これに伴い昇進試験制度は1987年を最後に廃止され、現在は年功序列を基本しつつ、一部の優れた者については抜擢での真打昇進が運用されている。真打#抜擢真打を参照)。

この2騒動は真打制度の問題点が明らかになった一方、地方でのホール落語の開催増加や団体に所属しないフリーランスの落語家の登場など、落語そのものの幅を大きく広げることともなった。
上方・大阪落語の身分制度

真打制度は戦前には上方にも存在した。しかし、戦中から終戦直後の時期において大阪では落語より漫才が好まれたこともあり、事実上、上方落語が崩壊していた時期に消滅した。その真打制度は上方落語協会で1977年(昭和52年)2月に一時復活して公表もされた。

2012年現在は制度として事実上消滅している。内部の落語家ランク(例えば協会費のランク)も他の基準(年功序列)で決定している。また大阪では、香盤は内部で存在している(かつて真打のみ一回だけ公表もされた)ものの、現在では外部には一切非公開となっている。

当時の会長六代目笑福亭松鶴は「真打にふさわしいかどうかはお客様が決めること(であり、真打制度に胡坐をかいて落語家サイドが真打を客に押し売りするのはおかしい)」と言っている[要出典]。その後、定席天満天神繁昌亭開設時に、真打制度復活が論議されたが見送られている。上方落語ならではの自由な気風を損ねるというのが、真打制度非導入の理由であった。このこともあり、主に上方落語四天王(松鶴・三代目桂米朝五代目桂文枝三代目桂春団治)の弟子には、寄席やテレビなどで早くに知名度をあげ、入門から7?10年程度で弟子を採る者も多くいた[注釈 12]。なお、上方落語では修業は年季奉公のシステムであり、年季明けとともに独り立ちとなる。真打の代替としてコンクールなどの各賞の受賞がステイタスの一つとなっており、受賞記念に定席となる天満天神繁盛亭および神戸新開地喜楽館で1週間主任を務める。

また、修業中に師匠が死去しても、別の師匠の元に移籍するというようなことがない。代表的な例には六代目松鶴の最後の弟子、笑福亭鶴二がおり、入門から1年も経たずに師匠松鶴が死去し、兄弟子にあたる笑福亭松葉(贈・七代目笑福亭松鶴)らの指導を仰いだが、現在でも「松鶴の弟子」として活動している。ただし全員がその限りではなく、東京のように元の師匠の兄弟弟子などに移籍する場合も稀にある。後者の例では、五代目林家小染などがいる。

真打・香盤問題は、上方落語協会では東京よりもナイーブな理由(ほとんど口喧嘩)で大物が脱退したことすらある[注釈 13]

香盤制度・真打制度は完全な実力主義でもないので、『急激に売れた人』『若い時から売れっ子になった人』に対する処遇が難しいというのも理由の一つである。真打昇進と真打昇進披露興行はリンクさせるが、上方落語協会(繁昌亭)は(香盤と関係なく)「賞」を落語家に受賞させそれと興行をリンクしている。東京の協会では幹部を話し合いで選ぶが、上方落語協会では協会員による直接選挙(正式には協会員の互選により会長候補者を選出する選挙[7])で選ぶ。

笑福亭仁智が上方落語協会会長在職中の2024年、上方落語の活性化を目指し「真打」の代替となる新たな試みとして、入門から15年程度の協会所属の若手中堅落語家を対象とした「上方落語・噺家成人式(仮称)」を実施する事となった。2024年度の対象者は桂團治郎、桂和歌ぽん、林家愛染、桂福点桂三語の5名で、同年9月の愛染を皮切りに前出の繁昌亭と神戸新開地・喜楽館で1週間主任(トリ)を務める[8]

東京の流れを汲む中でも、名古屋の登龍亭(旧・名古屋雷門)一門のように、「仮に真打を名乗ったとしても一門外の落語家や客が認めてくれるかどうかわからない」という理由から真打制度を棚上げする意向を示している一門もある[9][注釈 14]
アマチュアの落語家

大学の落語研究会に所属する学生などのほかにもアマチュアの落語家が昔から存在し、これらの人々はプロの落語家と区別するために「天狗連」「落語愛好家」などと呼ばれる。プロの落語家が使わない亭号屋号を名乗ることが多いが、指導しているプロの落語家が自身の亭号を与えるケースも多い。その他にも、地方で落語をベースにした独自の活動を主体にしている、大分県の県南落語組合・宮城県の東方落語などのような社会人活動グループなどもある。
女性の落語家

昭和後期になるまで、正式にプロの落語家に入門・団体に所属する女性落語家は存在しなかったが、1975年に上方落語の二代目露乃五郎(後の二代目露の五郎兵衛)に入門した露の都が初のプロの女性落語家とされる。当時は「落語は男がやるもの」という観念が強く、都は五郎に何度か断られた末に入門している[注釈 15][10]

その後、江戸落語でも落語協会では1981年に三代目三遊亭圓歌に入門した三遊亭歌る多(当時:歌代)が初の女性落語家となり、1993年には古今亭菊千代とともに女性落語家として初の真打に昇進している。歌る多・菊千代は当初は「女真打」として別枠であったが、2002年に女真打枠が撤廃され、通常の真打として男性と同列に扱われるようになった。

落語芸術協会は、1986年に桂右團治(当時:小文)が十代目桂文治に入門、2000年に真打に昇進し初の同協会所属の女性真打となった。

落語立川流は、2006年に立川こはるが立川談春門下に入門したのが初であり[11]、2023年5月に同派初の女性の真打に昇進(同時に「立川小春志」に改名)した。

円楽一門会は設立以来、長らく女性の落語家が在籍していなかったが、2022年に三遊亭竜楽に三遊亭たつみが入門。円楽一門会では初の女性落語家となったが、同年に正式に前座となる前に廃業している。

2023年現在では東西併せて女性の落語家は50名を超えており[10]、真打制度のある江戸落語3団体で15名が真打に昇進している(落語協会11名[注釈 16]、落語芸術協会4名[注釈 17]、落語立川流1名(立川小春志)。2024年4月現在)。現在では歌る多が落語協会の理事に就任しており、菊千代は女性の落語家として同じ女性の弟子である古今亭駒子を初めて真打に育て、歌る多も同様に女性の弟子である弁財亭和泉、三遊亭律歌を真打に昇進させた[12]。また、弁財亭和泉(夫は柳家小八)、春風亭一花(夫は金原亭馬久)の様に落語家同士が結婚するケースも出てきた。2024年には林家つる子が(女性の落語家が現在の共通の香盤になって以降では)初の抜擢真打として昇進している[13][14]

江戸落語のうち、毎年1月の新宿末廣亭の余一会では、昼夜を通じて落語協会所属の女性落語家がほぼ出演する「落協レディース」の特別興行が恒例となっており、定席以外でも江戸落語の所属団体横断のユニット「落語ガールズ」の落語会が2023年4月まで定期的に開催されていた[15]


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