萬屋錦之介
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実子は淡路との間に三男の小川晃廣[注 1] と四男の小川哲史[注 2]
略歴
歌舞伎役者時代

暁星小学校卒、旧制暁星中学校を2年で中退。初名は中村 錦之助。父時蔵は吉右衛門劇団立女形で、歌舞伎役者の御曹司として、1936年11月歌舞伎座で初舞台。長兄・種太郎(のち二代目中村歌昇)、次兄・梅枝(のち四代目中村時蔵)、三兄・初代中村獅童と同時で、満4歳であった。女形・立役(男役)ともに務めて歌舞伎界にて役者修業を積んでいた。

特に可憐な女形として人気を集めるなど評価が高かったが[3]、四男であり、歌舞伎界で主役級俳優を目指すのは困難な状況で端役に甘んじることが多かった。すると、当時美空ひばりを抱え、その相手役として若手男優を探していた新芸術プロから映画界へのスカウトを受け、錦之助は転身を考えた。しかし歌舞伎役者たちによる「映画転出は許さない」との抗議が殺到したように、当時の梨園では「役者たちに歌舞伎・映画両方での活動を許せば、映画で人気を得た若造たちに梨園の秩序をかき乱される」という見方が大勢であり、父の時蔵であっても「中途半端はいけない。映画界に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい。もし映画で失敗しても歌舞伎に戻ることは許さない」と錦之助に決断を迫ったといわれている。
映画界に転向1954年

結局、歌舞伎を断念する道を選んだ錦之助は、1953年11月15日歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年2月に映画界に転向する。錦之助と弟の賀津雄(嘉葎雄)が東映入りすると、三兄の初代中村獅童も梨園を去って、弟たちを東映のプロデューサーとして支えた。波紋を呼んだ錦之助の映画への転身だったが、この当時にすでにスターだった美空ひばり側の勧誘だったことも事態に負の要素となったといわれる。その証左に、錦之助が映画で名を成してから父を数本の映画に出演させたが、その際に父は特に歌舞伎をやめる必要はなかったことが挙げられる。

美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、新東宝を経て東映に移籍。甘いマスクで注目されたこともあり同社製作の映画『笛吹童子』、『紅孔雀』に出演し、立て続けの大ヒットにより一躍スターとなり全国で「錦ちゃん」ブームが巻き起こった[3]。以降は大川橋蔵市川雷蔵東千代之介らと共に「二スケ二ゾウ」と呼ばれ東映時代劇の看板スターとなり、日本映画界の全盛期を支えた。『一心太助』シリーズ、『宮本武蔵』シリーズは当たり役となり、特に武蔵役はライフワークとなった。
ドラマに進出、舞台復帰

昭和30年代後半からテレビに人気を奪われ始めた映画産業の斜陽化に合わせて、錦之助はテレビドラマへの進出を図る。1965年に東映京都撮影所に東映俳優労働組合が結成されると、後輩たちから打診されて委員長に就任した。しかし、翌1966年東映内部の労働争議を収拾できなかったこともあり東映を退社[3]1968年に「中村プロダクション」を設立して独立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出した。この頃の出演ドラマとして、『子連れ狼』や『破れ傘刀舟悪人狩り』、『破れ奉行』、『長崎犯科帳』、『破れ新九郎』等がある。

1956年の小川家による地方巡業『お祭』『仮名手本忠臣蔵 八段目道行旅路の嫁入』で舞台に復帰。毎年6月に東京・歌舞伎座で定期興行を打っていた。なお歌舞伎座での興行でありながら、錦之助の演目はほとんどが歌舞伎ではない新作時代劇であり、歌舞伎であっても全てが明治以降に作られたいわゆる「新歌舞伎」であった。本人も古典・伝統歌舞伎をやるつもりはなく、「子別れ(浄瑠璃歌舞伎演目の一つである"恋女房染分手綱"のこと)なんてできねぇよ」と言っていた。

映画界入り後に舞台をつとめた歌舞伎の演目は次のとおり。

『紅葉狩』(1971年)

真山青果元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』(1972年)

真山青果『頼朝の死』(1973年、1982年)

真山青果『新門辰五郎』(1976年)

岡本綺堂『番町皿屋敷』(1974年)

河竹黙阿弥極付幡随長兵衛』(1980年、1994年)

お祭』(1956年地方巡業)

仮名手本忠臣蔵 八段目道行旅路の嫁入』(1956年地方巡業、1994年)。

復帰狂言『お祭』は、大向うの「待ってました!」掛け声の後に役者が「待っていたとはありがてえ」という、復帰にからめたお馴染みのもの。『道行旅路の嫁入』は本人は「ごちそう」(特別出演)として一瞬登場するだけである。最晩年の1994年に演じた『極付幡随長兵衛』の長兵衛役は二代目吉右衛門のを忠実に演じたが、水野役の片岡孝夫(十五代目仁左衛門)とは子役時代からの友人である関係から、錦之介は「孝夫ちゃんと一緒にできる」と久々の共演を楽しんでいた。また、レコード歌手としてもデビューし、「やくざ若衆」「いろは小唄」などの曲をリリースし、「錦ちゃん祭り」というライブ・イベントを各地で開催した。
萬屋錦之介への改名、さらなる活躍

1971年10月、歌舞伎座の三代目中村時蔵十三回忌追善興行で「小川家」で一門をなすことを宣言し、屋号を萬屋に、定紋を桐蝶に改めた。翌1972年に自身の芸名も中村錦之助から「萬屋 錦之介」と改めた。この際、名を占い姓名判断)により「錦之助」を「錦之介」と変えている。

1978年公開の映画『柳生一族の陰謀』で主演したが、錦之介が12年ぶりに東映に復帰した作品となった[5]。錦之介演じる柳生但馬守宗矩の「夢でござる」という台詞は話題になり[6]、作品も大ヒットとなった[7]

1979年、テレビ朝日開局20周年記念番組『赤穂浪士』で主演を務めた。錦之介は沢島忠に「45歳になったら必ず大石内蔵助をやります。その時は監督をして欲しい」と依頼していたという。この作品で錦之介は、舞台・映画・テレビの全てで内蔵助を演じたことになった[8][注 3]
トラブル続きの晩年

先述の通り1968年に「中村プロダクション」を設立したが、社内にしっかりとした金の管理をできる者がいなかったことに加えて、人を信用しすぎる錦之介の人柄も相まって次第に経営が傾いていく[3]。結果、1982年2月に15億円もの莫大な借金を抱えて事務所は倒産し[9]、萬屋の別荘や自宅も人手に渡った[3]

事務所倒産から3か月後に出演した歌舞伎公演の最中に倒れ、首の筋肉が麻痺する重症筋無力症と診断されて入院。さらに同年8月には呼吸困難に陥り胸腺腫摘出手術をし[注 4]、長期入院を経て同年11月退院。翌1983年に重症筋無力症を克服し、1984年のドラマ「時代劇スペシャル 子連れ狼」で1年半ぶりに仕事を再開。悪いことは続き1990年には、右目角膜剥離を発病[3]。また、この間に自身の不倫が発覚、三男が亡くなった(#家族(妻と子供たち)参照)。

1996年に、翌年放送予定のNHK大河ドラマ毛利元就』の尼子経久役での出演が決まり製作発表の会見に臨むも、後日咽頭癌を発症し同役を降板した[注 5]。その後舌の付け根を大きく切除する手術を受けて、舞台に立つことを夢見てリハビリに励んだ[10][3]。しかし1997年3月10日14時41分、入院先の千葉県柏市国立がんセンター東病院で肺炎のため死去[11][12]


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