萩尾望都
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1962年大牟田市立船津中学校に入学する[注 4]。中学入学後、漫画を描く友人、原田千代子(後の漫画家・はらだ蘭)と知り合い[23]、漫画を描くための知識や漫画家になるためには作品を投稿する必要があることを知り、2人で貸本雑誌などに投稿した[22]。中学2年生[注 5]のときに大阪府吹田市に引っ越すが、その後も原田との文通は続く[23]

高校は大阪府立吹田高等学校に入学する[25]。高校2年生の終わり頃に手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志し[17][20][26][24][注 6][注 7][注 8]漫画雑誌[注 9]への投稿を始める[30]

高校3年生のときに福岡県大牟田市小浜の社宅に引っ越す[25]。校区があり福岡県立大牟田北高等学校に転校するが、競争が激しくなじめなかったと言う[31]。原田千代子の紹介で漫画同人誌「キーロックス」に同人漫画家として参加する[32][33]。「キーロックス」は福岡県立大牟田南高等学校の生徒3、4人および卒業生を合わせた8人くらいからなるグループで、肉筆回覧誌を作っていた[34]
デビュー前後

高校卒業後、福岡市内の日本デザイナー学院ファッションデザイン科に入学し、服飾デザインを学ぶ[35]。漫画の投稿は全部で10作ほど行い、そのうちの1作『ミニレディが恋をしたら』(ペンネームは「萩尾望東」)で『別冊マーガレット』(集英社1968年5月号の「少女まんがスクール」にて金賞を受賞するが、入賞作は掲載されなかった[36]。続く『青空と王子さま』は7月号で銀賞に落ちてしまい、『マーガレット』では採用してもらえないらしいと思った[注 10]萩尾は学校の冬休みに上京して出版社を訪問する計画をたてる[38]

休暇で上京した際に手塚プロのアシスタントをしていた原田千代子を訪問し、そこで初めて手塚治虫と出会う[23]。また原田と岡田史子を訪ねた。同郷の漫画家、平田真貴子のつてで講談社の『なかよし』編集部に持ち込みをした[39]。そこで「何か短い作品を」と言われ、忘れられないうちにと2週間で20数枚の作品を仕上げ提出[20]。その作品『ルルとミミ』が『なかよし』夏休み増刊号に掲載されてデビューした[20][23][27][注 11]

専門学校の卒業を控えた頃、講談社の編集者に頼まれ、東京にいた竹宮惠子のアシスタントに一晩だけ赴き、上京して一緒に住まないかと誘われる[41]。その後『なかよし』編集部からの『ビアンカ』(掲載は別誌)以外のボツが続くが、次の『ケーキ ケーキ ケーキ』で自分のスタンスの描きたいものを描く方針を決める。竹宮惠子より小学館の編集者を紹介すると言われ、ボツになった5、6作の原稿を竹宮に送る[42]。1970年10月頃上京し、練馬区大泉で2年間の共同生活に入る(大泉サロン)。竹宮惠子と共同アパートで生活し、後に24年組と呼ばれることとなる漫画家たちと切磋琢磨(せっさたくま)の日々を送るが、このときに増山法恵から様々な文化的な知識を吸収する[43]。その後、描きたいSFをテーマにした作品が採用されない時期が2年ほど続くが、竹宮に伴われ小学館へネームを持ち込んだ際に『少女コミック』編集者の山本順也に可能性を認められ、「自由にわがままに思い切り描かせたい」という方針のもと、本領を発揮するようになる[32][17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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