萩原健一
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俳優としても脚本家・橋本忍の指名を受け松竹映画『八つ墓村』(1977年)や黒澤明の『影武者』(1980年)などに出演。誘拐犯を演じた『誘拐報道』(1982年/モントリオール世界映画祭審査員賞)『もどり川』(1983年カンヌ国際映画祭受賞作品)、作家・連城三紀彦が萩原をモデルにしたという直木賞作品を自身で演じた『恋文』(1985年/日本アカデミー賞優秀男優賞)などに出演した。

1980年にいしだあゆみと結婚[6]、1984年に離婚発表。1983年には映画『竜二』の主題歌「ララバイ」を歌唱[8]。1983年1月インドカルカッタでチャリティコンサートを行う。同年4月20日、大麻不法所持にて逮捕され、懲役1年・執行猶予3年の有罪判決となり、1年間に渡って全ての活動停止を余儀なくされた[6]。復帰後も俳優業と平行して音楽活動を行い「愚か者よ」(1987年)のヒット曲を出した。

1984年、飲酒運転で人身事故を起こし、業務上過失傷害罪で逮捕された[6]。1985年11月には、女優・倍賞美津子との2ショット写真を週刊誌に撮られて激昂。カメラマンと編集者に暴行し、書類送検された[6]。この時期、バイオリニスト・前橋汀子と交際した。

1985年に1度ラスト・ライブをおこなったが、1990年にもコンサートを開き、俳優業と歌手を併行して活動をしていた。1993年に四国八十八箇所をお遍路し、1400-1600キロメートルを37日という驚異的な早さで踏破した。1990年代のドラマ、映画では東芝日曜劇場課長サンの厄年』、山口智子室井滋と共演した『居酒屋ゆうれい』(1994年/報知映画賞高崎映画祭主演男優賞)、ドラマ外科医柊又三郎』(1995年)などに出演した。

2004年10月、再び交通事故を起こし業務上過失致傷罪で現行犯逮捕された[6]。また、監督・スタッフ・共演者への暴言・暴行を繰り返したため途中降板となった主演映画『透光の樹』の前払いの出演料半額分(750万円)の返還をプロデューサーから求められた際に、「一方的に降板させられた」として拒否[6]。さらにプロデューサーに電話をかけ、国税庁警視庁・実在する暴力団の名を挙げて「必ずやっつけますから」と脅迫する言葉を留守電に残し、出演料全額分(1500万円)の支払いを要求したことで、同年11月に製作側から恐喝未遂容疑で告訴され、翌年の2月に再び逮捕された[6]。当初脅迫電話をしたことは否定していたが、証拠として録音された音声が出されると、これを認めた[9][10][11]

この恐喝事件で2005年6月に東京地裁で懲役1年6か月・執行猶予3年の有罪判決を受け、しばらく活動休止[6][12]。しかし2005年7月にテレビ番組内で、「大麻解禁にしましょうか」と発言し、その後、厚生労働省から注意されたため、「ジョークのつもりだった」と釈明した[6]

1996年にはヘアメイク・アーティスト、由紀と3度目の結婚をしたが、10年後の2006年に離婚している。萩原によればこの結婚には、親族から猛反対があったという。2008年に自叙伝『ショーケン』、ボーカリストとしてゲスト参加した宇川直宏による音楽ユニット・UKAWANIMATIONのデビューシングル「惑星のポートレイト 5億万画素」(作曲・プロデュース:石野卓球)で本格復帰を果たす。5年ぶりの映画出演となった『TAJOMARU』(2009年/小栗旬主演)の将軍足利義政役で日本映画批評家大賞の審査員特別男優賞を受賞。2010年には東京・大阪で7年ぶりのライヴ(トーク&ミニ・ライヴ)ツアーを行なった。

2011年2月7日に、モデルの冨田リカと結婚。「ジェットコースターのような人生だったけども、今後は2人でメリーゴーラウンドのようなゆっくりした人生を歩みたい」と語った。晩年は芸能活動の傍ら、東洋思想や仏教研究に取り組んだ。

2018年、自身のレコードレーベル『Shoken Records』を設立。同年5月9日に22年ぶりとなるシングル「Time Flies」をリリースした[13]

2019年3月26日午前10時30分、都内の病院でGIST(消化管間質腫瘍)のため死去[14][15]。68歳没。2011年から闘病していたが、本人の強い希望で病名の公表を控えていた[15]。葬儀は27日に家族のみで営まれ、本人が以前住んでいた神奈川県鶴見近辺の斎場で荼毘に付された[16]。共演の多かった女優、高橋恵子桃井かおりは萩原の死後、追悼コメントを出している。

高橋是清役で出演したNHK大河ドラマいだてん?東京オリムピック噺?』が没後に放送されているが、『いだてん』に於ける萩原の主な出演場面は生前にほぼ収録を終えており、予定されていた残りの出演場面については放送に支障が生じないように対応がとられた[17]
評価・影響

松田優作[18] ら当時の若手俳優や次世代の俳優たちに多大な影響を与えた。また、アドリブを駆使した演技は前田吟[19] のような年上の共演者にも影響を与えた。さらに、 小堺一機[20]とんねるず[18]ダウンタウン[21][注釈 4]などのコメディアンやサンボマスターの山口隆[20] などのミュージシャンにも影響を与えた。
ディスコグラフィザ・テンプターズでの活動については「ザ・テンプターズ」を、PYGでの活動については「PYG」を参照
シングル

発売日規格規格品番面タイトル作詞作曲編曲
ポリドール・レコード
1971年11月1日EPDR-1649Aもどらない日々岸部修三井上堯之PYG
B何もない部屋萩原健一沢田研二
1972年7月1日DR-1703Aブルージンの子守唄阿久悠加藤和彦瀬尾一三
B少年の魂
ワーナー・パイオニア / エレクトラ・レコード
1975年8月10日EPL-1257EAお前に惚れた阿久悠井上堯之
B兄貴のブギブギウギ三人衆[注釈 5]井上堯之
1977年4月L-87EA前略おふくろ藤公之介森田公一
B酒と泪と男と女河島英五
ミノルフォンレコード


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