華僑
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 インド189,000[25]
 アラブ首長国連邦180,000[26]
 パナマ135,000[27]
 マダガスカル70,000?100,000
言語
主に中国語北京語簡体字」・広東語繁体字」・客家語)などの諸方言
英語ベトナム語タイ語マレー語ミャンマー語インドネシア語などの現地の言語
宗教
主に仏教道教儒教
その他の宗教(多数のキリスト教、少数のイスラム教極めて少数のユダヤ教
関連する民族
漢民族客家人、中国人
チャイナタウン(ニューヨーク市ブルックリン区漢民族の一支流である客家の結婚式(東ティモール華僑博物館(厦門市)

華僑 (かきょう) とは、かつて中国に生まれて後に外国移住していた人々やその子孫のこと[28]。「華僑」の元の意味は、本籍地を離れて異国を流浪する華人の意である[28]。殆どは19世紀以後西洋の植民地において奴隷として移住された人の子孫である。

※国際連合の定義の中国とは、中国本土を実質支配する政府であることを指す。すなわち、初期は中華民国(1949年まで)、現在は中華人民共和国(1949年以降)と認めている。
定義

中華人民共和国中国共産党政府からの解釈では、「中国大陸本土台湾香港マカオ以外の国家地域移住しながらも、中国国籍を持つ漢民族」を指す呼称とされている。外国籍取得者の華人に対しても使用されることがある[29]。なお、前政党である中華民国が支配している台湾島も”固有領土”として含まれるが、実質的な行政管理権もなく、国際間の外交関係もそれぞれ異なる。

日本国内においては基本的に国籍で見るのが一般であるため、華僑と華人という言い方はあまり馴染んていない。そのため、中華人民共和国政府から発行したパスポートを持つ人々は中国人、中華民国(台湾)政府から発行したパスポートを持つ人々は台湾人とそれぞれ認識されている。

※現在では、お互いのパスポートでそのまま入国することはできず、改めて入国専用の身分証を作る必要がある。
華僑と華人

華人と混同される場合があるが、それぞれに異なる概念である。華僑とは台湾、中国、東南アジアの中国移住者が海外に長期滞在の者であり[30]、華人とは他国に帰化した者を指す[31]。また、ハングリー精神を持つ華僑は、商売経営に成功した者が多く、第二次世界大戦までその経済基盤からの本国への送金によって、中華民国の国際収支の重要な要素となっている。その華僑・華人の子孫は「華裔」と呼ばれる。「在日中国人」および「華人」を参照
コミュニティの形成と現地社会への進出

華僑はマイノリティながら、同郷者で形成されるコミュニティーと、これをもとにした同業者の集団ができあがり、現地の経済・政治に大きな影響力を持つことが多い。同業者の集団ができあがるのは、先行して商売を始めた経営者が、同郷の人を雇い、やがては独立して同業を行うことが繰り返されやすいことによる。経済的に実力をつけると政治面でも力をもつようになり、政治面での例としてタイ王室タクシン元首相及びその妹のインラック元首相、リー・クアンユーシンガポール首相、コラソン・アキノフィリピン大統領、ミャンマーのネ・ウィン元首相、テイン・セイン元大統領は華僑の血を引いている。

華僑は容易に相手を信頼しないかわり、一旦信頼したらとことん信頼するといわれ、それが彼らの団結力の背景にもなっている。彼らは友人を大切にする[32]
言語

広義的に、数千年の歴史と文字がある中国語は公式言語だが、日本と同じく地域によってそれぞれの方言が存在している。例えば、

広東人広東省広州周辺出身で広東語を話す
福建人/?南人福建省南部の泉州廈門?州周辺や台湾出身で福建語(?南語)を話す
潮州人潮州汕頭周辺の出身で潮州語を話す
客家人広東省東部の梅州陸豊海豊福建省西部周辺や台湾出身で客家語を話す
海南人現海南省出身
台山人/四邑人台山江門出身で台山語を話す
福州人福州福清周辺出身で福州語を話す
興化人?田周辺出身で興化語を話す
寧波人浙江省寧波周辺出身で寧波語を話す
温州人温州周辺出身で温州語を話す

などが別々に同郷人のコミュニティーを形成してきた。出身地の方言の他、海外居住地域の言語を用いるのが普通であるが、近年には北京語英語も広く用いられるようになっている。
日本の華僑
歴史

華僑の概念をひろくとれば、歴史的に多くの華僑が日本にもわたってきている。元寇捕虜となったが、日本側から許された南宋人らは博多唐人町などに居住した。また、における海禁のもとで密貿易を行い財をなした後期倭寇の中国人も華僑の多くと同様に浙江・福建・広東出身者が多く(後期倭寇は華僑の走りとも解釈できる)、中には王直のように日本に渡ってくるものもいた。「日宋貿易」、「倭寇」、および「海禁」を参照

江戸時代鎖国政策により、長崎には中国人住居地区である唐人屋敷が作られた。1635年、江戸幕府は中国商船の入港を長崎一港に制限する措置を取ったが、中国人は長崎市内雑居を許されていた。しかし、密貿易が増加したため、長崎奉行所では中国人の居住地区も制限することになり、1688年長崎郊外にある十善寺郷に幕府が所有する御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年完成した。広さは約9,400坪に及び、2,000人程度の収容能力をもった。周囲は塀と堀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、出入りが監視されたが、出島オランダ人が厳重に監視されたのに比べ、中国人は比較的自由に出入りが許された。

以下の関連記事も参照。

居留地と華僑

函館中華会館(1910年に建設)

第二次世界大戦直前の時期においても日本には相当数の華僑が在住していた。1941年(昭和16年)5月19日長崎市で開催された全日本華僑総会常年大会では「在日華僑十万」という表現が用いられていた[33]


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