菅義偉
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現住所は神奈川県横浜市神奈川区金港町[12]。妻は松山市の副市長の娘[13]。大臣政務秘書官を務めた長男の正剛[14]をはじめ息子が3人おり[15]、次男は三井物産、三男は大成建設で勤務している[16]。なお孫が3人いる[17](うち二人は長男の娘[18])。
満州から引き揚げた両親

家族は父、母、姉2人、弟がいる。

父親である菅和三郎は23歳(1940年か1941年)のときに満州国(現・中国東北部)に渡り、南満州鉄道に入社、結婚し、長女が生まれた。第二次世界大戦末期、ソ連参戦により、和三郎は臨月の妻と長女とともに通化市日本の降伏を迎えた。通化では日本の避難民が中共軍などに虐殺される通化事件が起こるが、菅一家は間一髪のところで通化を脱出、奉天(現在の瀋陽市)に向かった。奉天で次女が誕生。現地では偶然、秋ノ宮村からの開拓団と遭遇し、和三郎は彼らの食糧調達などに奔走する。1946年に引揚げ、引揚げ後は、郷里の秋ノ宮で農耕に従事した。「秋の宮いちご」のブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任。2010年(平成22年)に92歳[19]で死去すると、旭日単光章を叙勲されている[20]

母や叔父、叔母は元学校教員であり、2人の姉も高等学校教員となった[21][22][23][24][25]

弟の秀介は株式会社千葉ステーションビルの元取締役[26]
故郷秋田から上京就職

雄勝町立秋ノ宮小学校(現・湯沢市立雄勝小学校)を卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現・湯沢市立雄勝中学校)に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。後に、『フライデー』から「特に目立った成績ではなく、姉が進学した北海道教育大学を受験したが不合格となった」と報道されたが、森功の取材では菅本人は当時「教員にだけはなりたくない」と考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後上京する。

東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京した[27]が、東京都板橋区の段ボール製造工場(社名未詳)で勤務していた時代には秋田時代と変わらぬ日々を過ごし、現実の厳しさを痛感して2か月で工場を退職。それから約2年後に法政大学に入学するまでの経緯については、報道によって食い違いが見られる。

朝日新聞記者の大鹿靖明2009年に菅の両親に取材を行った際の記録によれば、工場を退職した菅は秋田の実家に戻り、大学進学を目指して受験勉強を始めた。その傍ら、役内川のアユ釣り大会で優勝し、秋田県知事から竿を贈られている[28]。一方、一部週刊誌では、菅は東京に留まり、朝は築地市場、夜は新宿区飲食店アルバイトをして生活し、その合間に受験勉強をしていたとされている[29]
法政大学へ進学

上京から2年後に「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学する[29][30]。なお、複数の週刊誌などで第二部(夜間学部)の出身であると報じられることがあるが、菅本人が2016年のインタビューで「メディアで二つくらい、法政の夜間卒だと書いているのがありましたが、昼です」と述べており[3]、実際には第一部(昼間)の出身である[31]

法大在学中には実家から仕送りも受けつつ[32]警備員新聞社カレー屋のアルバイトで生活費と学費を稼いでいた。一方で、大学の空手道部に4年間所属し、三段の段位を取得している[29][33]1973年、法政大学法学部政治学科を卒業し、建電設備株式会社(現・株式会社ケーネス)に入社した。
政治家秘書として

1975年政治家を志して相談した法政大学就職課のつてで、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉の秘書を紹介された。


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