菅直人
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このころは父と同じ東京工業大学に進み、サラリーマン技術者になろうと考えていた[5]1963年、高校2年生の夏、父の転勤に伴い菅一家は東京都三鷹市に引っ越し、東京都立小山台高等学校2年に編入。父は再度の転勤で三重県に引っ越すが、菅は姉と東京に残る。その後、津田塾大学に入学していた従姉の伸子が菅家で下宿を始める[5]1965年3月、卒業。
学生運動から市民運動へ

同年、東京工業大学理学部に入学、一年後に応用物理学科へ進学。在学中は学生運動にのめり込んだ。東工大の同級生によれば、大学の自治会に入り込んでいた中核派に対して菅は「イデオロギーでは何もかわらない。現実的な対応をしなければ」と批判し、15人ほどの組織「全学改革推進会議」を立ち上げて極左系とは違う学生運動を行った[6]。この全学改革推進会議は先鋭化していく全共闘共産党の支配下にある民青とも異なり[7]、大学寄りの体制側グループでもない第4のグループであった[8]。この集団は200人ほどの組織になった[8]

大学紛争の影響で卒業研究ができなかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年[9]1970年3月、東京工業大学理学部応用物理学科を卒業。この年の弁理士試験には不合格。結婚については菅伸子を参照。

小田島特許事務所に就職。1971年、弁理士試験に合格。弁理士を志望したのは、同じ大学出身の技術者であった父から、会社内での技術者の不遇を聞かされており、本屋で見つけた弁理士の本で関心を持ち、有名企業に就職しても、自分の将来・先が、わかるなどの理由からだった[10]

また、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった[11]。1974年に独立して「菅特許事務所」を開設する[11]。その後弁護士となっていた大学の後輩と共に菅・高橋特許法律事務所を設立した[5]
市川房枝立候補運動

1971年、東京の地価高騰に疑問を抱き一橋大生の協力を得て土地問題のシンポジウムを開催。1972年の春に「宅地並み課税推進討論集会」を開催し、市川房枝青島幸男青木茂都留重人を招く。「よりよい住まいを求める市民の会」と「恐怖の化学物質を追放するグループ」を結成し、市民運動を展開[5]

1973年、市川や青木が代表幹事を務める「理想選挙推進市民の会」から誘われて東京都議会議員選挙を手伝い、その後菅らのグループは市民運動の成果を政治に反映させたいと考え、1971年の参議院選挙で落選し引退を宣言していた市川に1974年の参院選全国区への立候補を依頼。市川は度重なる要請にも応じなかったが、菅らは「市川房枝を勝手に推薦する会」を結成。根負けした市川が立候補を決めたことを受けてグループは「市川房枝さんを推薦する会」を結成した[5]。菅は選挙事務長を務めた[12][13]。20日間余りの選挙運動で人員の手配や事務管理などを切り盛りした菅は「庶務課長」と呼ばれ、市川は2位当選した。市川が1981年に死去した際、菅は「政治家としての発言力、信頼性は恐らくナンバーワンで、なにより存在そのものに意味がありました」「私は何ものにも替えがたい貴重な薫陶を受けたと感謝しています」といった言葉を寄せている[5]
政界へ
無所属立候補

市川の支援団体「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」の支持を得て、1976年第34回衆議院議員総選挙旧東京7区から無所属で立候補するも次点で落選[14][15]
社会市民連合・社会民主連合

1977年、江田三郎の要請を受けて社会市民連合に参加した[16] が、市川房枝から反対され「参加民主主義をめざす市民の会」から退会した[17]。社会市民連合では江田とともに代表に就任。同年7月の第11回参院選東京都選挙区から出馬したが落選。

1978年田英夫らが合流した社市連は社会民主連合となり、菅は副代表に就任。1978年度版の平凡社百科年鑑に市民運動家として掲載された。

1979年10月7日に行われた第35回衆院選旧東京7区から社民連公認で立候補するも、次々点で落選した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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