菅原道真
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寛平5年(893年)2月16日には参議式部大輔に任ぜられて公卿に列し、2月22日には左大弁を兼務した[16]。4月2日には敦仁親王が皇太子となったが、宇多天皇が相談した相手は道真一人であったという。立太子に伴い、道真は春宮亮を兼ねている[17]

寛平6年(894年遣唐大使に任ぜられるが[18]、道真はの混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出している[19]。ただし、この建議は結局検討されず、道真は遣唐大使の職にありつづけた[20]。しかし内外の情勢により、遣使が行われることはなかった[21]延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経藤原有実源直)を越えて従三位権中納言権春宮大夫に叙任。また寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平10年(898年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王とし、宇多との結びつきがより強化されることとなった[22]
右大臣

宇多朝末にかけて、左大臣源融藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する右大臣源能有ら大官が相次いで没し、寛平9年(897年)6月に藤原時平大納言左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官の長となる体制となる。7月に入ると宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した[注釈 1]

醍醐天皇の治世でも宇多上皇の御幸や宴席に従うなど、宇多の側近としての立場も保ち続けた[24]

昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。道真は家が儒家であり家格が低いことと、出世につけて中傷が増えたため辞退したいと上申していたが、悉く却下された[25]。翌昌泰3年(900年)には右近衛大将の辞意を示したが、これも却下された[26]。一方で文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭す文章を送っている[26]。8月21日には祖父以来の文章・詩をまとめた家集を醍醐天皇に献上し、「尽く金」と激賞された[27]
左遷と死「昌泰の変」も参照

昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、1月25日に大宰員外帥左遷された[28]。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会しとりなそうとしたが、衛士に阻まれて参内できず、また道真の弟子であった蔵人頭藤原菅根が取り次がなかったため、宇多の参内を天皇は知らなかった[29]。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」として以降、現在でもこの見解が一般的である[30]

道真と時平の関係は険悪、あるいは対立的であったと捉えられることが多いが、実際は道真の家と時平の家はそれぞれの父親の代から関わりが深く、度々詩や贈り物を交わす関係であった[31]。贈答詩については、道真から発したものはなく時平への返答のみ[32]である。昌泰2年(899年)には、時平が父基経の事業を受け継いで建設した極楽寺(現在の宝塔寺の前身)定額寺とするための願い状の代筆を道真に依頼するなど、時平は文章家としての道真を高く評価していた[33]。道真の失脚は、単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層の同意があった[34][35]

また『扶桑略記』延喜元年七月一日条に引く『醍醐天皇日記』は、藤原清貫が左遷後の道真から聞いた言葉として、「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった。又仁和寺(宇多上皇)の御事に、数(しばしば)承和の故事(承和の変)を奉じるのだということが有った」と記載している。これにより、廃立計画自体は存在したという見解もある[36]。また、廃立計画の背景として、時平の妹である穏子の入内を望む醍醐天皇に対して、阿衡事件の経緯から基経の娘(時平の姉妹)の入内を拒んできた宇多上皇が反発したとする指摘がある[注釈 2][39]

太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた[40]。『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っている[41]。大宰府浄妙院謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。
死後の復権

延喜6年(906年)冬、道真の嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰している[42]。延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる[43]。延喜13年(913年)には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。

延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮保明親王が薨御した。『日本紀略』はこれを道真の恨みがなしたものだとしている[43]。4月20日(923年5月13日)、道真は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られた[43]

延長8年(930年)朝議中の清涼殿落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した[44]。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮においてとして祀られるようになった[44]

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られた[44]


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