菅原洋一
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ソウルオリンピック前夜祭に日本代表として出演[1]

2000年代頃からはライフワークともなった最小限の音飾で「生の歌声と生音の演奏」が中心の「ニュークラシカルコンサート」を全国クラシックホールを中心に展開している[3]

2001年5月に「アルゼンチン建国記念日」を祝い、「タンゴフェスタ2001」を開催[3]

2006年、ペギー葉山&菅原洋一コンサート「いい時代 いい歌50年」を全国で開催[1]

2008年、歌手生活50周年記念リサイタルを渋谷オーチャードホールにて開催[1]。同年、(社)日本歌手協会常任理事に就任[5]

2010年、喜寿を迎え、「77歳77曲コンサート」を開催[5]。また、上記の日本歌手協会レーベル第1号歌手として「ビューティフルメモリー」を発売[1]

2012年、歌手生活55年記念として全曲新録音のベストアルバム「ビューティフルメモリー 我が心の歌?80才の私からあなたへ?」発売。以降毎年「〇〇才の私からあなたへ」シリーズのアルバムを発売[1]

2019年、文化庁長官表彰[7]

米寿を過ぎた現在(2022年)もCDを発表し、2ヶ月に1度のペースで東京・上野のライブハウスで歌い、他にも都内や地方でコンサートを開いている[2]

エピソード
生い立ち

生家は、加古川市内の寺家町商店街にあった若松屋という商家で、乾物から棺桶まで扱っていた。実母は歌の上手な人だったが、菅原を生んで間もない頃に亡くなり、物心がつく前に父親が再婚し継母と暮らし始めた。菅原は子供の頃、ラジオから流れる流行歌を覚えて、従業員の休み時間に家の中で歌っていた。周りの大人たちに歌声を褒められたが、この頃は特にプロの歌手になりたいとは思っていなかった[2]

実は小学生の頃まで継母を実母と思って暮らしており、中学1年生のある日親戚の女性から生まれてすぐに実母が亡くなった事実を知らされた[注釈 1]。しかし、父も義母もそんなことを微塵も感じさせずに育ててくれたことから、両親にはそれまで通りの態度で接し続けた[注釈 2]。この頃、ラジオから流れてきた「黄昏」という曲を聴いて心が震え、これが菅原にとってタンゴとの運命的な出会いとなった[2]

中学生の頃は体が弱かったこともあり風邪をこじらせて、一時心臓や腎臓を悪くした[2]。しばらく学校を欠席した影響で数学の成績が悪くなり、以前から音楽に興味があったことも相まって、数学とは無縁の音楽系大学への進学を目指すようになる。本人によると、田舎町だったこともあり音大受験のための学校がなく、高校進学後は独学で音楽を勉強した[2]

志望校を国立音楽大学に決め、課題である声楽(『マルタ』というオペラのアリア)と、ピアノ曲『乙女の祈り』を練習した。入試当日、ピアノ演奏が途中で止まってしまい諦めかけたが、思いがけず合格した。後に本人が聞いた話によると、試験官の先生の中に「声質はいいし、面白そうだから入れてやろうよ」との意見が出たことで合格になったとのこと[2]
歌手デビューへ

同大学声楽専攻科入学後は、関種子[注釈 3]に師事[2]。本心ではタンゴを習いたかったが、同大学では当時軽音楽の類[注釈 4]を勉強するのが禁止だったため、密かにタンゴのレコードを聞いたり、タンゴ喫茶に足繁く通うことで欲求不満を解消した。また、スペイン語(タンゴで有名なアルゼンチンの言語)とイタリア語が似ていることからこれを隠れ蓑に、関に「イタリア音楽を勉強したい」と告げ、イタリア歌曲やカンツォーネを歌うことでタンゴの下地を作った[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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