菅原伝授手習鑑
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そして驚かせ給うなと、一間より声を掛けて姿を現わしたのも菅丞相。あまりのことに覚寿も輝国も呆然とするばかりである。菅丞相は絵画や彫刻に魂が乗り移った古今の例をあげ、自分が覚寿のためにと心を込め、三度も作り直して彫り上げたものなので自ずと魂が入り、身替りとなって自らを助けたのであろうと物語る。「はなくらべ手習鏡ノ内 菅相丞」 五代目澤村長十郎の菅丞相。「丞相名残」の最後で、なお苅屋姫のことを思い袖を巻き上げて振り返るという「天神見得」の姿を描く。三代目歌川豊国画。

出立の刻限が来た。そのとき覚寿は丞相に、配所での寒さしのぎにと伏籠に掛かった小袖を送ろうとする。だがその伏籠のなかには苅屋姫がいた。すなわち姫もともにという覚寿の心遣いであったが、それと気付いた丞相は、小袖の受取りを辞退し立とうとする。伏籠のなかの姫は思わず泣き声を上げた。それを聞いた丞相も姫との別れを心では悲しみつつも、「なけばこそ 別れを急げ とりの音の 聞えぬさとの 暁もがな」と詠み、輝国に付き添われて九州の配所へと向かうのであった。
三段目

(車曳〈くるまびき〉の段)菅丞相は流罪となり、斎世親王は法皇のもとに預けられたことで梅王丸と桜丸は主を失い、いまは浪人の身の上である。ある日ふたりは往来でばったりと出会い、親王や姫のこと、また流罪となった菅丞相の身の上などについて涙しつつ語り合うのだった。そこへ雑色が先払いに、左大臣時平公が吉田神社へ参詣するために道を通る、片寄れと厳つい声で言い捨て去って行く。これを聞いた梅王と桜丸はいまこそ時平に返報と、やってきた時平の牛車を襲う。だが時平付きの牛飼いである松王丸が二人を阻む。互いに牛車をやるやらぬと曳き合ううち、牛車の中より金冠白衣の時平が姿を見せ、「ヤア牛扶持食らう青蠅めら、轅(ながえ)にとまって邪魔ひろがば、轍(わだち)にかけて敷き殺せ」という。牛車は大破し、梅王と桜丸は折れた轅を持って時平を打とうとするが、「ヤア時平に向い推参なり」とくわっと睨んだその眼力にふたりは動けなくなる。結局梅王、松王、桜丸の三人は、来月行われる親四郎九郎の賀の祝での再会を期して別れる。

(茶筅酒〈ちゃせんざけ〉の段)四郎九郎の隠居所には菅丞相の御愛樹とて梅、松、桜の木があった。四郎九郎は七十の賀を機に、名を白太夫と改めた。そこに近所の百姓十作がきて白太夫と話をしている。今日は白太夫の七十の賀の祝いに、三つ子とその妻達が集まることになっており、十作の家もその祝いの相伴に茶筅で酒塩を付けた餅を貰ったなどと話すうち、桜丸の女房八重が来たので十作は帰っていった。やがて梅王丸の女房お春と、松王丸の女房千代も訪れ、道で摘んだタンポポ嫁菜も使っての祝いの料理を、八重もいっしょになって作るのだった。

だが白太夫は、十作から梅王、松王、桜丸の三人が吉田社で喧嘩沙汰を起こしたこと(車曳)を聞いていた。そのことを嫁たちに問うが、春も千代も八重もどう答えたものかと困惑するばかりである。祝いの膳も出来たのに、その三人の息子たちはまだ見えない。ならば自分は氏神様にお参りに行こうと、白太夫は出かけていった。

(喧嘩の段)やがて松王丸が、そのあと少し遅れて梅王丸がやってきた。しかし菅丞相にとっては敵の時平に仕えている松王丸と、それが面白くない梅王丸は女房たちが止めるのも聞かず取っ組みあいとなり、そのはずみで庭の菅丞相遺愛の桜の木を折ってしまう。

そこへ白太夫が戻る。梅王と松王は桜の木を折ったことを叱られると思ったが、桜が折れているのを見たはずの白太夫はなぜか何もいわなかった。梅王丸は白太夫に、九州に下って菅丞相にお仕えしたいという。しかし白太夫は、まずは行方の知れぬ御台様や菅秀才様たちをお尋ねしろ、丞相様の所には自分が行くといって許さない。松王は、親白太夫から勘当を受けたいと願い出る。親兄弟とは縁を切って、時平に忠義を尽くすというので白太夫は怒り、その願い聞き届けてやるから出て行け、梅王も出て行けと、八重を残してみな追い出されてしまった。梅王と松王それぞれの夫婦は致し方なく帰る。「花比手習鏡ノ内 桜丸」 三代目尾上菊五郎の桜丸。肌を脱いで切腹しようとする姿を描く。三代目豊国画。

(桜丸切腹の段)白太夫も奥に引っ込んでしまい、ひとり残された八重が落ち着かぬ気持でいると、桜丸が刀を片手に納戸より現われた。八重はびっくりしてなぜ今まで出てこなかったのかと桜丸に問う。だがそこへさらに、白太夫が腹を切る刀を三宝に載せ、桜丸の前に据えた。桜丸は切腹するのである。この様子に八重はまたびっくりし、なぜ死なねばならぬのかとその訳を涙ながらに尋ねた。

桜丸は語る。自分たち兄弟が厚く目をかけられ、可愛がってもらった菅丞相は、自分が斎世親王と苅屋姫との恋を取り持ったばかりに謀叛の汚名を着せられ、遠い筑紫へと流罪になってしまった。この事件の責任をとるべく自害を決意し、じつは今朝早々にこの隠居所を尋ね、親白太夫に自害の覚悟を伝えていたというのである。それで白太夫もいままで桜丸を納戸に隠し置き、また梅王松王が桜の木を折ったのを咎めなかったのも、桜丸はもはや自害するより道はないという先触れであると見たからであった。息子に先立たれる白太夫の悲哀。

やがて桜丸は腹に刀を突っ込み、自害して果てた。八重は夫のあとを追おうと、桜丸が使った刀を取って自害しようとするが、そこへ帰ったはずの梅王丸とお春が出てきて八重をとめる。ふたりは桜丸がいつまでたっても来ないことや、丞相愛樹の桜が折れたことを白太夫が咎めなかったのを不審に思い、今まで近くに潜んで様子をうかがっていたのである。梅王夫婦も桜丸の死を嘆く。白太夫は梅王たちにあとのことを任せ、桜丸を失った悲しみをこらえつつも九州の配所にいる菅丞相のもとへと、すぐに旅立つのであった。
四段目

(筑紫配所の段)白太夫は筑紫に下り菅丞相のそば近くに仕え、丞相は配所で心静かに配流の日々を送っていた。今日も白太夫が引く牛の背に乗りながら、安楽寺へと参詣に向う。寺に着くと住職が丞相を出迎え、ちょうど梅の花見時でもあったところから、梅の花を見ながらのもてなしを丞相は受けるのであった。ところがそこに喧嘩だという声がして、刀を抜いて斬り合う者たちが乱入するが、その一方をよく見ればなんと梅王丸。梅王丸はとど相手をねじ伏せ捕らえる。

梅王丸は丞相に挨拶し、菅秀才と御台の身柄は武部源蔵と八重、お春が保護していることを知らせた。さらに今斬りあいをしていたのは時平の家来鷲塚平馬で、昨日筑紫へ下る船の中で一緒になったが、平馬ははるばるこの筑紫まで、丞相を殺す時平の命を帯びてやってきたのである。丞相は梅王の働きを誉めたが、今の三つ子たちの境涯を嘆き、「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」と詠む。

だが菅丞相は平馬の口から、時平が帝や法皇を押し込めて天下を覆そうとする陰謀を聞くと顔色を怒りに変え、手にした梅の枝で平馬を打つと平馬の首が落ちた。さらに「魂魄雲居に鳴るいかづち…首領となって眷属を引きつれ、都に上り謀叛の奴ばら引き裂き捨てん」と、白太夫たちが驚き取り付くのも撥ね退け、突風の吹きすさぶ中でついに天神と化し、天へと昇るのであった…

(北嵯峨の段)…というのは、菅丞相の御台が見た夢であった。

ここは北嵯峨、御台が八重やお春と共に潜伏する隠れ家である。目を覚ました御台は八重たちに今見た夢の話をする。そういえば最前から胡散臭い山伏が、深編笠をかぶり法螺貝を吹きながら家の様子をうかがっていた。それももういなくなってしまったが、万一時平にここをかぎつけられては一大事である。ちょうど近くに法性坊の阿闍梨が来ているというので、阿闍梨に御台様のことを頼もうと、お春は出かけてゆく。

だがそこへ、時平の家来星坂源五が手勢を率いて踏み込み、御台を捕らえようとする。八重は薙刀を持って応戦しこれらを追い払うが、傷を負わされ息絶えてしまう。御台は八重のなきがらにすがって嘆くが、源五が戻ってきて御台を捕らえようとする。するとこの家をうかがっていた山伏が現われ、源五をつかんで投げ飛ばし、御台を抱え飛ぶがごとくに走り去った。

(寺入りの段)京の外れ、芹生の里にある源蔵の寺子屋では今日も近在から百姓の子供たちが集まり手習いをしているが、源蔵は村の集まりがあって留守にしていた。そんな中で姿をやつした菅秀才が、これもほかの子供とともに机を並べて手習いをしており、よい歳をしてへのへのもへじなど書いている十五のよだれくりをたしなめたりしている。そこへ、同じ村に暮らしているという女が子供を連れ、下男に机や煮染めの入った重箱などの荷を担がせて訪れる。戸浪が出てきて応対する。聞けばこの寺子屋に寺入り(入門)させたいとわが子を連れてきたという。子供は名を小太郎といった。戸浪は小太郎を預かることにし、母親は後を頼み隣村まで行くといって下男とともに出ていった。

(寺子屋の段)源蔵が帰ってきた。だがその顔色は青ざめている。ところが戸浪が小太郎を紹介すると、その育ちのよさそうな顔を見て機嫌を直した。戸浪は子供たちを奥へやり遠ざけ、源蔵になにかあったのかと尋ねると、ついに菅秀才捜索の手が源蔵のところに迫ってきたのだという。村の集まりというのは嘘で、行った先で待ち構えていたのは時平の家来春藤玄蕃と事情を知り尽くした松王丸であった。この村はすでに大勢の手の者が囲んでいる、この上は菅秀才の首を討って渡せと言われ、帰って来たのだった。

もはや絶体絶命かと思われたが、しかし源蔵は小太郎の顔を見て、これを菅秀才の身替りにしようと考えたのである。もしこれが偽首と露見したらその場で松王はじめ手の者を斬って捨て切り抜けよう、それでもだめなら菅秀才とともに自害して果てようとの覚悟である。しかし今日寺入りしたばかりの子を、いかに菅秀才の身替りとはいえ命を奪わなければならぬとは…戸浪はもとより源蔵も「せまじきものは宮仕え」とともに涙に暮れるのであった。

菅秀才の首を受け取りに、春藤玄蕃と松王丸が来た。松王丸は病がちながら、菅秀才の顔を知っているので首実検のためについてきている。村の子供たちを一人ずつ確めそれらをすべて帰したあと、いよいよ菅秀才の首を討つ段となり、源蔵は首桶を渡された。源蔵は奥で小太郎の首を討ち、それを首桶に入れて出てきて松王丸の前に差し出す。張り詰めた空気の中、松王丸は首を実検した。ためつすがめつ、首を見る松王丸。

「ムウコリャ菅秀才の首討ったわ。紛いなし相違なし」

松王丸は玄蕃にそう告げた。玄蕃はそれに満足して首を収め、時平公のところへ届けようと手下ともども立ち去る。松王丸は病を理由に、玄蕃とは別れて帰ってゆく。あとに残った源蔵と戸浪はひとまず安堵した。だが今度は小太郎の母親が、小太郎を迎えにやってきたのである。

致し方ないと源蔵は隙を見て母親に斬りかかるが、母親は小太郎の文庫(手習の道具箱)で源蔵の刀を受け止めた。ところが刀を受け止めた文庫が割れると、その中から出たのは死者の着る経帷子や南無阿弥陀仏と記した葬礼用の、そして母親は涙ながらに、「菅秀才のお身代り、お役に立ってくださったか、まだか様子が聞きたい」というので源蔵はびっくりする。そのとき表の門口より、「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」という声。続いて「女房悦べ、せがれはお役に立ったぞ」との言葉に、母親は前後不覚に泣き崩れ、外から現れたのは松王丸であった。この様子に唖然とする源蔵と戸浪。「寺子屋」 二代目中村仲蔵の松王丸(左)と二代目中村のしほの千代。寛政8年(1796年)7月、江戸都座。初代歌川豊国画。

松王丸は事情を語る。小太郎とはじつは松王丸の実子、その母親とは松王丸の女房千代だったのである。松王丸は本心では菅丞相に心を寄せ、牛飼いとして仕えながらも菅丞相に敵対する時平とは縁を切りたいと思っていた。そして菅秀才の身替りとするため、あらかじめ小太郎をこの寺子屋に遣わしていたのだと。

戸浪は千代の心中を察して涙する。松王丸はなおも嘆く千代を叱るが、小太郎がにっこり笑っていさぎよく首を差し出したと源蔵から聞くと、「でかしおりました、利口なやつ立派なやつ、健気な…」と言いつつ、「思い出すは桜丸…せがれが事を思うにつけ思い出さるる」と涙し、千代も「その伯父御に小太郎が、逢いますわいの」と泣き沈む。忠義のためわが子を犠牲にした松王夫婦の姿に、菅秀才も涙するのであった。

やがて松王丸が駕籠を招き寄せると、駕籠から菅丞相の御台所が現われ菅秀才と再会する。以前北嵯峨で御台を助け連れ去った山伏とは、松王丸であった。松王夫婦は上着を脱ぐと葬礼の白装束となり、御台が乗ってきた駕籠に首のない小太郎のなきがらを乗せ、野辺の送りをする。悲しみの中、皆は小太郎の霊を弔う。御台所と菅秀才は河内の覚寿のもとへ、松王夫婦は埋葬地の鳥辺野へとそれぞれ別れてゆく。
五段目

(大内天変の段)その後、夏の六月ごろに雷が毎日内裏の上空ではげしく鳴り響くようになった。この天変に法性坊の阿闍梨が朝廷に召され、帝を雷から守るために紫宸殿護摩壇を設け、加持祈祷を行う。判官代輝国が斎世親王、苅屋姫、菅秀才を連れて参内する。菅秀才は時平に捕まってしまうが内裏に雷が落ち、時平の一味である左中弁希世と三善清貫は雷に当って焼け死に、そのすきに菅秀才は逃げ出した。さらに護摩壇のあたりから桜丸と八重の亡霊が現われ時平を責め苛み、ついにその命を絶つと菅丞相の霊も鎮まったのか空は晴れ渡る。松王丸、白太夫、梅王丸も参内し一同みな集まったところに、菅秀才が菅原家を再興し、菅丞相には正一位を贈り、さらに社を建てて南無大自在天満天神とあがめ、皇居の守護神とせよという宣旨が下るので、人々は悦び合うのであった。
解説

天神伝説や飛梅伝承など、菅原道真にまつわる民間信仰天神信仰)は古くからある。


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