莅戸善政
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さらに寛政10年(1798年)には、これまで基本的に上士階級である侍組しかなれず、ほとんど侍組でも上級の家格である分領家が就任していた[1]奉行に就任し、石高1000石となる。これにより名実ともに藩政改革を主導することになるが、一方で神保綱忠とは対立を深め、自らの死後の神保の台頭を防ぐため、後嗣の政以を自らの補佐も兼ね中老職に任じた。

寛政12年(1800年)には、飢饉救済の手引書として「かてもの」を執筆した。

長泉寺に埋葬された。明治41年(1908年)9月に正五位を追贈され[2]、米沢松岬神社に合祀された。
人物・交流

高山彦九郎と面識があった[3]

当初は一般の米沢藩士同様、貧乏で「米櫃を 莅戸(のぞき)て見れば米はなし あすから何を 九郎兵衛(くろうべえ)哉」という狂歌まである。

町奉行時代には町人の贅沢を制するために、同職の長井藤十郎とともに自ら質素倹約の模範となったが、このため「焼味噌九郎兵衛」とあだ名がつけられた。ちなみに長井には「干菜(ほしな)藤十郎」とのあだ名がつけられた。

七家騒動の際は処分を覚悟して、子の政以に遺書を書いたが処分されなかったので、結局「遺書」にはならなかった。

その死に際して、病状が悪化し危篤となった時、治憲が自ら微行して枕頭を見舞った。

脚注[脚注の使い方]^ 上杉文書の「紹襲録」によると分領家ではないが侍組の吉江輔長(喜四郎)が安永2年から天明2年まで奉行だったことがある。
^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.25
^ 詳細は外部リンク参照

関係書物

杉原謙「莅戸太華翁」刊行会(
明治31年刊行)

参考文献

横山昭男「上杉鷹山」(吉川弘文館

横山昭男ほか「上杉鷹山のすべて」(1989年初版・新人物往来社

外部リンク

高山彦九郎記念館・高山彦九郎交友録


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