寛政12年(1800年)には、飢饉救済の手引書として「かてもの」を執筆した。
長泉寺に埋葬された。明治41年(1908年)9月に正五位を追贈され[2]、米沢松岬神社に合祀された。
人物・交流
高山彦九郎と面識があった[3]。
当初は一般の米沢藩士同様、貧乏で「米櫃を 莅戸(のぞき)て見れば米はなし あすから何を 九郎兵衛(くろうべえ)哉」という狂歌まである。
町奉行時代には町人の贅沢を制するために、同職の長井藤十郎とともに自ら質素倹約の模範となったが、このため「焼味噌九郎兵衛」とあだ名がつけられた。ちなみに長井には「干菜(ほしな)藤十郎」とのあだ名がつけられた。
七家騒動の際は処分を覚悟して、子の政以に遺書を書いたが処分されなかったので、結局「遺書」にはならなかった。
その死に際して、病状が悪化し危篤となった時、治憲が自ら微行して枕頭を見舞った。
脚注[脚注の使い方]^ 上杉文書の「紹襲録」によると分領家ではないが侍組の吉江輔長(喜四郎)が安永2年から天明2年まで奉行だったことがある。
^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.25
^ 詳細は外部リンク参照
関係書物
杉原謙「莅戸太華翁」刊行会(明治31年刊行)
参考文献
横山昭男「上杉鷹山」(吉川弘文館)
横山昭男ほか「上杉鷹山のすべて」(1989年初版・新人物往来社)
外部リンク
⇒高山彦九郎記念館・高山彦九郎交友録