荘子_(書物)
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「 形のない天」を愛する至人としての心境

人間は、自分を生んでくれた「天」について、これを父として愛するものである。まして、これよりも卓越した、「形のない天」(運命のこと)を愛することができない道理があろうか、とする[注 10]

至人は、与えられたものに選択を加えず、その運命のままに、すべてを肯定してゆく。「人がつき従う形とは、時の変化のままに従い、明日にも消え去る定めのものではないだろうか」、という句がある。(斉物論篇)[注 11]。運命の内容は、死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑と示されている。ここには、賢不肖のような先天的なものも含まれているとされる[12]
古来よりの考え方との関連

古代中国において、天は超人的な宇宙の支配者として絶対視された。中国が天を畏敬するようになったのは、紀元前1700年頃よりのこととされる[注 12]

中国民族の運命観とは、天命思想であった。古代においては、人格神であった天帝が、天命を下すと信じられてきた。しかし、時代がたつにつれて天の人格性が薄れ、やがて天道や天理といったロゴス的存在に転化していったとされる[13]
大戒について

一つ目の大戒は、子が親を愛することは命であり、自然の道によって定められているということである。もう一つは、臣下が君主に仕えるのは義である、ということである。この天地のあいだで、君臣の義からのがれる場所はない、とされ、民は、その君主の持ち物であるとされる。(人間世篇)。たとえ聖人が戦いをおこして国を滅ぼすようなことがあっても、それは必然の運命に従ったまでである(大宗師篇)とする[14]

上古の真人は、その表面はいちおう世間と同調するように見えるが、しかし、徒党を組むようなことはしない、という句は、刑・礼・知・徳という世俗の規定を、一応肯定している[15]
胡蝶夢的真人としての心境

多くの人は、寝ているときは、夢の中で魂が交わる。さめているときは身体の感覚が働いて外物に接する。(斉物論篇)。

「胡蝶の夢」においては、身体は自己(魂・意識)の外形である[16]、とした場合、夢の中では自己意識を持たない蝶に化することがあるということが語られている。これは、形の上では大きな違いがありながら、ともに自己という存在であることに変わりがなかった、ということが語られている。意識の世界においては、胡蝶と荘周、そのいずれもが真実であるとされる[17]。自己意識を持たないものに変化することができるという点からすると、大鵬や無為や大道についても、これと一体化することはできそうである。これとは逆に、自己意識を有する者(人間や鬼神)に関しては、これとは同化できないようである。
生活者としての真人の心境

荘周は、宋の王室御用の漆を栽培する畑の管理役をしていたとされる。役人としての地位は、労務者の取り締まり程度のものであったとされる[18]。また、自由の境涯を享受していたので、生活は貧窮していたとされる。荘周は、妻子を養っていたという記述もある[19]。妻の葬式の時に、子供を育て、年老いた夫婦として暮らしていたということを弔問客から言われるような生活者であったようだ。(至楽篇)。真人には、世間の中で暮らす老人、という表面上の姿の奥に、真の孤独の境地に住する者という隠れた姿があるようだ。

真人とは、いつでも真実の自分の心のうちの徳をたのしみつつ、その境地に静止している人、真実の自分に目覚めた人のことであるといえる。(大宗師篇 四)
身体について

天地の自然は、自分をのせるために身体を与え、自分を働かせるために生を与えている。(大宗師篇)[20]

身体には、百の骨節、九つの穴、六つの内臓がすべてそろっている。身体の各部分は、召使の身分にあるということになるであろう。その主宰者は天であり、道であり、自然であり、運命であり、絶対的な一者である[21]。 人間の身体は、さまざまな異なったものをかり集め、これを一つの形体に作り上げたものでしかない。人間は生死の循環を無限に繰り返し、終わりも始めも知るよしがない。(大宗師篇)。
心について

心にも、目や耳がある。(逍遥遊篇)。心の世界はある[22]。身体は自己の外形である[23]

心が有であり、限定を持った存在であるならば、無限の包容性を持つことはできないであろう[24]

精神のはたらきは四方の果てまでに達し、いっせいに流れ出して、及ばないというところはない。上は天にまで届き、下は地に広がり、万物を変化生育させ、その霊妙なはたらきは形容する言葉もないほどである。しいて名づけるならば、天帝に等しいともいえよう。(刻意篇)

純粋素朴の境地を得るための道は、自分の精神のはたらきを失わないように守ることである。もし精神を護って失うことがなければ、自分の身も精神と完全に一つになることができる。そのひとつになったところに生まれる霊妙なはたらきは、さらに天に通じ、天地自然の道に合一するのである。(刻意篇)
人生苦について

人間は、自己を外物のうちに見失い、わが本性を世俗の内に喪失しやすい存在であるとされている。この状態にある人を、倒置の民(さかだちをした人間)と、荘子は呼んでいる。(繕性篇)。本当の自分を見失いやすい外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声であるとされている[注 13]

欲望のうちに固く閉じ込められている、という表現は、老いていよいよ道を踏み外す人間の形容にふさわしい、とされている(斉物論篇)[25]。また、人が病気になったときに、死を恐れ、生に執着することは、運命にさからう人間の妄執であるとされている[26]

死というものについて荘子は、魂が肉体の束縛から解放されて、自由の天地に向かって飛び去ることであるとしている。(知北遊篇)[27]。荘子は、妻の葬式の時に、「わしとても、妻が死んだ当初には、なげきの気持ちがなかったわけではない」と、語ったが、死は天地の巨室に憩うことだと考えなおした、ということが、記されている。(至楽篇)
魂について

天地がまだ存在しない太古から、すでに存在している道を体得した者は、道が帝を神とし、鬼を神としているさまを知る[28]、としているところから、荘子は、死後の世界についての明確な認識を持っていたようである。


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