荘園制
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農村社会における全ての社会経済要素の基礎となったのは、土地所有の状況であった。荘園の登場に先立って、2つの土地システムが存在していた。より一般的だったのは、完全な所有権の下で土地を保有するシステム(1人の土地所有者の他にその土地の権利を有する者が皆無というシステム。英語でallodiumという。)であり、もう一つのシステムは、土地を条件付きで保有する形態である神への贈与(precaria)又は聖職禄(beneficium)の利用であった。

これら2つに加えて、カロリング朝の君主たちは、第3のシステムとして、荘園制に封建制を融合させたアプリシオ(aprisio)を創始した。アプリシオが最初に出現したのは、シャルルマーニュ(カール大帝)の南仏保有地であるセプティマニア地方である。当時、シャルルマーニュは、778年サラゴサ遠征に失敗し、その際、退却軍についてきた西ゴート族の難民をどこかへ定住させてやる必要に追われていた。この問題は、皇帝直轄地である王領(fisc)のうち、未耕作で不毛な地帯を西ゴート族へ割り当てることで解決した。これがアプリシオの初現だとされている。確認されたもののうち、最も初期のアプリシオは、ナルボンヌ(Narbonne)に近いフォンジョクス(Fontjoncouse)で見つかっている。

西ヨーロッパ旧帝国内の一定の地域では、古代末期に別荘(villa)システムが確立し、中世世界へと継承された。
ヨーロッパ荘園に見られる共通点

荘園を構成する土地は、次の3階層に分けられた。
領地(demesne
:領主の直轄地)は、領主により直接支配された地区であり、領主の一族・郎党の利益のための収奪が行われた。

農奴(serf又はvilleinという)の保有地は、領主へ納入する労役や生産物・現金といった貢納(保有地に付随する慣習とされていた)を支えるための土地であった。このような農奴による土地保有を農奴保有(villein tenure)という。詳しくは農奴制の項目を参照。

自由農民の保有地では、上記の様な貢納は免除されていた。反面、自由農民も荘園の裁判権や慣習に従属し、賃借に伴う借金を負わされていた。

領主の収入源には、この他にも(法廷収入や借地の変更契約ごとの収入と同様に)領主の持つ水車・製パン所・ワイン圧搾機などの使用料や領主の森での狩猟権料・ブタ飼育権料などが含まれていた。領主の支出面を見てみると、荘園管理は大きな出費を伴うものであり、小規模な荘園では農奴保有に依存しない傾向があったのも、このためだったと考えられている。

農奴の保有財産は、名目上は領主と借地人(農奴)との合意に基づくものとされていたが、実際には、ほぼ強制的に世襲させられていた(相続時に領主への支払が課せられていた)。農奴は、人口的・経済的な条件が整って逃亡できる見込が立たない限り、土地を放棄することはできなかった。同じく、領主の承認や慣習的な支払なくして、土地を第三者へ譲渡することもできなかった。

農奴は自由民ではなかったが、奴隷だったわけでもない。農奴は法的権利を主張し、地域の慣習に従い、(領主の副収入でもある)法廷料を支払えば訴訟に訴えることもできた。農奴が保有財産を転貸することは珍しくなく、13世紀頃からは領地(領主の直轄地)での労役の代わりに金銭納入が行われるようになった。
ヨーロッパ荘園の様々な形態

封建社会の法的・組織的な枠組みを荘園制とともに形づくる封建制がそうであるように、荘園構造もまた、封建的な特徴を示す社会に普遍的な一定現象であるとは言えない。経済状況の変化にともなって荘園経済は相当な発展を見せたが、それでも中世後期に至るまで、荘園が全く存在しないか、不完全でしか存在しない地域が残存し続けた。

また、すべての荘園が前述3種類の土地から構成されていたわけではない。平均してみれば、領地(領主の直轄地)は耕地可能な土地のおよそ3分の1を占有し、農奴の保有地はそれよりも広いというケースが多かった。しかし、領地(領主の直轄地)のみから成る荘園や、自由農民の保有地のみから成る荘園も存在していた。同様に、農奴の保有地と自由農民の保有地の割合には地域差が大きく、領地での農作業に係る賃金・労役への依存度を大きく左右した。

大きな荘園では(領地(領主の直轄地)での義務労役という大きな潜在的供給力を持つ領主がいれば、)農奴保有地の割合が大きかったのに対して、小さな荘園では、領地における耕地可能な面積の割合が大きくなりがちであった。自由農民の保有地が占める割合は、一定範囲内に収まっていたが、小さな荘園では幾分大きくなる傾向が見られた。

荘園は、地理的状況の面でも多様性が見られた。単一の村落からなる荘園はあまり見られず、多くは2個?数個の村落から構成されており、そのほとんどは他の荘園の一部と混在していた。このため、領主の所有地から離れた場所で生活する農民も少なくなく、このような農民は領地(領主の直轄地)で労役義務を果たす代わりに金銭納入を行うようになっていった。

農民の保有地が小地面から成っていたように、領地(領主の直轄地)も単一的な土地ではなかった。領地は、領主の居館を中心として、その近接地や資産建物、さらに自由農民や農奴の保有地の間を縫うように存在する小片の土地群から構成されていた。また、領主は、より広い範囲の生産物を供給しうるべく、幾らか離れた場所にある他の荘園を保有するだけでなく、隣接する荘園の財産を賃貸借することもあった。

荘園を保有していたのは、必ずしも上位領主へ軍役奉公(または代銭納)を行うような在俗領主ばかりではなかった。イングランド1086年に編纂された統計大鑑ドームズデイ・ブックに残された記録から推計してみると、国王が直接支配した荘園は全体の17%を占め、さらに大きな割合(4分の1以上)を主教職や修道院が保有していた。聖職者の保有する荘園は、隣接する在俗領主の荘園よりもはるかに広大な農奴地を持っており、次第に拡大していった。

荘園経済を巡る社会環境から生まれる影響は、複雑であり、時には矛盾をはらむこともあった。高地では農民の自由が保たれるようになっていた(特に畜産は労働の集約化が弱まったため、農奴の奉仕を必要としなくなっていった)が、他方、ヨーロッパの幾つかの地域では、最も圧政的な荘園支配と呼ばれるような状況も見られた。その中にあって、東部イングランド低地では、スカンジナビア入植者の遺産の一部として、当時としては例外的とも言える農民の広範な自由が確保されていた。

同様に、貨幣経済の拡大は、労役の代わりの金銭納入が普及していくという形で現れた。しかし、1170年以降、マネーサプライの増大とそれがもたらしたインフレーションの結果、貴族たちは、賃貸していた土地や財産を取り戻すとともに、文字どおり減退してしまった現金支払の固定価値と同等の労役を再び課していった。
地歴的概略

荘園制(manorialism)という用語は、中世西ヨーロッパを説明する上で最もよく使用される。荘園制に先立つシステムは、後期ローマ帝国の農村経済にその初現を見ることができる。出生率と人口が減少していく中で、生産の重要な要素は労働であった。代々の支配者たちは、社会構造を固定することにより帝国経済の維持を図っていった。

父親の職は息子が世襲するものとされた。評議員(coucillor)は任期切れで退任し、コロヌスと呼ばれる耕作者層は居住する領地からの移動を禁じられた。これらの耕作者はserfと呼ばれる農奴となっていった。複数の要素が重なって、旧来の奴隷の地位と旧来の自由農民の地位を併せ持ったコロヌスという従属的な階級が生まれたのである。325年頃にコンスタンティヌス1世が発布した法令は、コロヌスの半奴隷的な地位を規定するだけでなく、法廷における告訴権を保証するものでもあった。帝国内への居住が認められた異民族foederatiが移住してきたため、コロヌスの数は増加していった。

5世紀に入ると、ゲルマン王国がローマ帝国の権威を継承したことにより、ローマ人領主は異民族に取って代わられた。8世紀には、地中海貿易が壊滅したことで、農村の自給自足体制が急速に確立されていった。歴史家アンリ・ピレンヌは、イスラム圏への征服活動が、ヨーロッパ中世経済の著しい農村化をもたらし、また多様な農奴階級が支える地域権力ヒエラルキーという伝統的な封建様式を引き起こしたとする説を展開している(ただし異論も少なからずある)。
その他の地域における荘園制
インド

古代インドにおいては絶対的所有権の概念が存在せず、自給自足に近い生活を送る零細農家が森林を開発して田畑とした者が土地の所有者となり、君主租税を納めることでその耕作権が保障された。古いインドの村落共同体はこうした土地所有者によって構成されていた。古代カースト制氏族社会においては自由な土地の売買や譲渡は許されていなかったが、紀元前5世紀前後には社会の発展とともに緩やかになっていった。また、君主の土地に対する支配権が確立され、バラモンクシャトリヤに土地を与えることが行われるようになり、彼らはダーサと呼ばれる従属民などを用いて大土地所有者としての地位を確保してきた。

ところが、1793年にインドの植民地化を進めるイギリスは北インドにおいてザミーンダーリー制度を導入して領主地主を土地の近代的な土地所有権者と認める一方で、従来現地住民が持っていた土地所有権・耕作権を強制的に剥奪して領主・地主の小作人として所属させ、領主・地主を通じて恒久的に現金を徴税することにした。これは小作制度というよりも中世荘園制度のインドへの導入に近く、従来は古代には収穫物の6分の1、デリー・スルターン朝時代以後でも収穫物の3分の1の徴収であったものが定額かつ高額な地税を現金による納付となり、なおかつ徴収実務は領主・地主に任されていたために、農民は農奴に近い状況に置かれた。

これに対して南インドでは伝統的な村落共同体の影響が強いために、農民の従来通りの土地所有を前提としてより緩やかなライーヤトワーリー制が導入されたものの、5-6割の地租の前に未納を理由とした官の没収もしくは納税のための借金のかたに領主・地主層からなる金融業者の差押を経て北インドと同様の土地支配体制が広がっていった。この状況は第二次世界大戦後のインド独立まで続くことになる。
朝鮮半島

朝鮮半島でも統一新羅の時代より貴族や寺院による小規模な荘園が形成されていたが、本格化するのは武臣政権の成立、モンゴル帝国の侵略が続いた高麗後期である。この時代に田柴科を基本とした土地・租税制度は崩壊に向かい、宗親・両班・寺院・武人らが各地で大規模な土地兼併を行うようになった。高麗の荘園(朝鮮語版)は農荘・田荘・別墅などと呼ばれ、荘園には耕作地以外にも山野や森林などを含み、その中に農舎・亭楼・学堂・仏寺などが設置され、中には内部で利潤を目的とした墓地や長利(高利貸)経営を行う為の施設を有する者もいたが、ほとんどの所有者は通常は都市に住み、実際の運営は現地に派遣された奴僕によって行われていた。耕作者は奴婢と土地の無い良民であったが、彼らは5割にものぼる小作料の他、運送・飲食代など諸経費も徴収された。土地兼併や徴収が暴力を伴う場合もあり、土地を巡って争いが起きている場合には当事者双方が小作人より二重の徴収を行われる場合もあった。高麗の荘園には不輸不入は認められていなかったが、所有者が権勢者であった場合にはその政治的圧力で事実上の不輸不入の状態となった。

李氏朝鮮成立の過程で土地制度の改革が行われ、科田法及び職田法が導入され、多くの既存荘園が没収されていった。


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