荒井由実
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夫はアレンジャー松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務める。
経歴

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出典検索?: "松任谷由実" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2009年12月)

立教女学院高等学校多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。

雲母社取締役、苗場プリンスホテル名誉総支配人(期間限定)。1972年、荒井由実の名でEMIミュージック・ジャパンからデビューし、1976年の結婚以降は松任谷由実へ改姓。2013年、EMIJ解散に伴いユニバーサルミュージックへと自動的に転籍。
生い立ち

1954年1月19日、3男2女の第4子(次女)として生まれる[注 2]。6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めた。

1966年4月立教女学院中学校に進学[9]

中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。またフィンガーズの追っかけもしていた。のちに同レストランに集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。

立教女学院高校に進学し、当時「(立教女学院の)パイプオルガンプロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている[10][11]。また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボージャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける[12]

14歳のころ、当時親しかったシー・ユー・チェンが荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。
デビュー、荒井由実として活動

1971年、高校3年生のときに書いたデモテープが採用され[13]加橋かつみに「愛は突然に…」を提供し、17歳で作曲家としてデビューした[13]。採用した日本フォノグラムプロデューサー・本城和治は「ユーミンの声はフランソワーズ・アルディが歌っているみたいな、日本人にはちょっといないタイプで好きになりました。それでレコーディングにも来てもらったんですが、すごくいいセンスしていると思ったのに、彼女を歌手にしようという発想はできなかった。プロデューサー人生、最大の失敗と言っていいかもしれない。彼女は当初は好きだったブリティッシュポップ系の作品が多かったんですが、マンタ(松任谷正隆)と付き合うようになってから、アメリカンポップスも聴くようになった。それで『ルージュの伝言』みたいな曲も書くようになったんです」などと述べている[13]

染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学[14]

元々作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。しかし同シングルは数百枚しか売れなかった。

1973年11月に、キャラメル・ママらとレコーディングしたファーストアルバム『ひこうき雲』を発売。デビュー時は特に話題になることはなく[15]、デビューから1年半の間は、パーソナリティ林美雄が金曜日第2部(27:00 - 29:00)を担当していたTBSラジオ深夜放送パックインミュージック」以外にはマスメディアに取り上げられない状況が続いたが[15]、林のプッシュもあり、徐々に知名度を上げてゆく[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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