長年にわたり市民に親しまれていたが、郊外により大型のスキー場ができると利用者数は減少していき、2000年(平成12年)をもって休止した[4]。 現存する札幌市最古のスキージャンプ台で、改修と改名を重ねながら利用され続けている[1]。 1928年(昭和3年)2月、秩父宮雍仁親王が冬の道民生活の視察かたがた、札幌近郊の山々やニセコでのスキーを楽しむために来道。その際秩父宮雍仁親王は、「将来日本でオリンピックを開催するとしたら、山が近い上、雪質に恵まれ、しかも大都会で大学もある札幌において他にない。そのためにはオリンピック用のシャンツェが必要だ。良い場所を見つけ、設計をして送ってくれれば、私が造れるようお世話しよう」と周囲の者に構想を残すが、当時の日本国内はオリンピック級のジャンプ台を設計する者などいない状況であった。そこで、当時の全日本スキー連盟会長稲田昌植と木原均(ともに北大スキー部OB)が、秩父宮雍仁親王にその旨申し出たところ、大倉喜七郎を通じスキーの先進国ノルウェーから専門家を招き設計を依頼することになる。口添えの元、同時期京都滞在中だったノルウェー公使に専門家招聘を依頼したところ承諾され、その1カ月半後に、ノルウェースキー界の重鎮でありシャンツェ構築の世界的権威者のヘルセット中尉が来日することになる[5][6]。 1929年(昭和4年)12月[7]、ノルウェーのスキー指導者[2]ヘルセット中尉の指導を受けて広田戸七郎が設計した[7]、木で櫓を組んで作った40メートル級のものである[2]。これは秩父宮と高松宮宣仁親王の来訪にちなんで「荒井山記念シャンツェ」と名づけられた[4]。 1940年(昭和15年)1月、北海タイムス社の出資により改修が行われ、45メートル級の「タイムス記念飛躍台」となった[7]。 1954年(昭和29年)、森永製菓が鉄骨で改造したシャンツェを寄贈したため「森永記念シャンツェ」と呼ばれるようになった[7]。 1973年(昭和48年)、25メートル級シャンツェを新設。1981年(昭和55年)11月には、K点50メートルのミディアムヒルとK点25メートルのスモールヒルの2基体制となった[7]。 スキー場の閉鎖後もシャンツェは機能しており、2001年(平成13年)から2003年10月までの3か年をかけて、全面改修が行われた[7]。サマーヒル化された、K点55メートルのミディアムヒルとK点25メートルのスモールヒルの2基体制で[7]、主に小中学生によって利用されている[1]。 札幌市営地下鉄東西線円山公園駅より、ジェイ・アール北海道バス円14「荒井山」下車[1]
荒井山シャンツェ
交通アクセス
ギャラリー
「荒井山スキー場跡地」碑
展望台。この下の斜面がゲレンデだった。
荒井山シャンツェ
脚注^ a b c d ⇒札幌市 - 荒井山シャンツェ
^ a b c d e f g h 今井朋信「札幌の山・50峰」『札幌の山々』
^ 大野清七「札幌・スキーの歩み」『冬のスポーツ』
^ a b ⇒札幌市中央区 - 多くのスキーヤーが集った荒井山
^ ⇒【公益財団法人 札幌スキー連盟 概要】 札幌スキー連盟の誕生
^ 中浦皓至「日本における飛躍台(シャンツェ)の発祥史について
^ a b c d e f g “札幌大倉山展望台 - 荒井山シャンツェの歩み”. 2008年12月18日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2015年9月8日閲覧。
参考文献
『冬のスポーツ』さっぽろ文庫16
『札幌の山々』さっぽろ文庫48
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