1928年(昭和3年)6月、同人誌『銅鑼』を16号をもって終刊する[4]。同月、継母の異母妹にあたる江島や満と結婚、9月には東京から群馬県前橋市へ転居する[4]。11月、活版印刷としては初の詩集となる『第百階級』を刊行する[4]。全篇が蛙をテーマにしたものであり、以後も、この生物を扱った詩を書き続けた。12月、詩誌『学校』を創刊する(翌年の10月に7号で終刊)[7]。 1929年(昭和4年)6月、上毛新聞社に入社し校正部に勤務する[4]。7月、長男が生まれる[7]。9月頃から前橋に帰郷していた萩原朔太郎と交流をもつ[8]。1930年11月、上毛新聞社を退社し帰郷する[8]。 1931年(昭和6年)1月、小野十三郎・萩原恭次郎との共訳で『アメリカプロレタリヤ詩集』を刊行する[8]。2月に上京、5月に麻布十番で屋台の焼き鳥屋を開店する(翌年5月に閉店)[8]。9月、謄写版詩集『明日は天気だ』を刊行する[8]。1932年(昭和7年)、実業之世界社
『歴程』創刊
1934年(昭和9年)1月、宮沢賢治が前年9月に亡くなったことを受け『宮沢賢治追悼』を編集・刊行する[8]。賢治には生前に会う機会はついになく、高村光太郎経由で訃報を知り花巻の実家を訪れることになった。5月、帝都日日新聞(発行:実業之日本社)に移籍する[8]。10月、心平が共同責任編集者となった『宮沢賢治全集』(文圃堂書店)の第1巻が刊行、全集は全3巻で翌年9月に完結した[8]。
1935年(昭和10年)5月、詩誌『歴程』を創刊する[8]。創刊時の同人は、心平、岡崎清一郎、尾形亀之助、高橋新吉、中原中也、土方定一、菱山修三、逸見猶吉、宮沢賢治(物故同人)の9名で、その後、山之口貘、伊藤信吉、小野十三郎らが加わった[8]。『歴程』は1944年(昭和19年)3月に中断するまでに26号まで刊行された[9]。11月には詩誌『コスモス』の創刊に参加した[10]。 1938年(昭和13年)2月から4月まで、帝都日日新聞の記者として満州・中国を視察する[10]。そのときの模様を『支那点々』(三和書房、1939年)にまとめている(なお、同時期の日記は現存しない。また南京陥落の1937年12月には南京には滞在していない)。12月、詩集『蛙』を刊行する[10]。1939年(昭和14年)2月、『蛙』出版記念会を開催、谷川徹三、萩原朔太郎らも出席する[10]。3月、祖母のトメが89歳で死去する[10]。11月、帝都日日新聞を退社し、翌月、東亜解放社
南京時代
1940年(昭和15年)7月、中華民国中央政府(南京政府)の招き[注釈 1]で同政府の宣伝部顧問として中国へ渡る[11]。翌年7月からは家族も帯同し、1946年までの約6年間を南京で過ごすことになる[12]。大東亜文学者大会(帝国劇場)に中華民国(汪兆銘政権)代表として出席、1943年に汪兆銘政権が英米に宣戦布告した際には「宣戦布告」という詩を「読売新聞」に掲げている。