1940年(昭和15年)7月、中華民国中央政府(南京政府)の招き[注釈 1]で同政府の宣伝部顧問として中国へ渡る[11]。翌年7月からは家族も帯同し、1946年までの約6年間を南京で過ごすことになる[12]。大東亜文学者大会(帝国劇場)に中華民国(汪兆銘政権)代表として出席、1943年に汪兆銘政権が英米に宣戦布告した際には「宣戦布告」という詩を「読売新聞」に掲げている。
1945年(昭和20年)7月、南京駐在陸軍により現地召集され兵役につく[12]。陸軍二等兵。8月の敗戦で全財産が没収され、南京日僑集中営に約半年間収容される[12]。1946年(昭和21年)3月、上海から帰還船LSTに乗船、31日、生家着。 1947年(昭和22年)7月、『歴程』を復刊する[12]。10月、故郷の小川郷駅前に貸本屋「天山」を開店する[12]。1948年(昭和23年)、貸本屋を8か月で閉店後、8月に単身上京する[12]。千葉県の浦安に落ち着き、のち江戸川区へ。1949年(昭和24年)8月、練馬区下石神井の御岳神社社務所に移り、郷里から家族を呼ぶ。神田神保町にあるラドリオが開業した同年のクリスマスには古田晁とラドリオで初めて対面している[13]。またラドリオでは、中華がゆが提供されていたことがあり、草野の友人から習って提供したことから「心平がゆ」と名付けてもよいといわれていた[14]。 1950年(昭和25年)1月、一連の「蛙の詩」により第1回読売文学賞(詩歌部門)を受賞する[15]。11月、日本文芸家協会理事に就任する[16]。1951年(昭和26年)3月、現代詩人会が創設したH氏賞の第1回選考委員を務める[16]。
『歴程』復刊
居酒屋「火の車」の招聘で同村平伏沼
1954年(昭和29年)4月、現代詩人会幹事長に選出される[16]。「読売新聞」に、汪兆銘を描いた小説「運命の人」を連載した。
1956年(昭和31年)、平伏沼畔に心平の歌碑が建立される。12月、居酒屋「火の車」を閉店する[16]。1957年(昭和32年)4月、日本ペンクラブ理事に就任する[16]。 1960年(昭和35年)6月、新宿御苑前にバー「学校」を開店する[17]。9月、福島県川内村の名誉村民となる[17]。 1963年(昭和38年)10月、北多摩郡東村山町南秋津(現:東村山市秋津町)に建てた家に転居する[17]。 1956年4月2日、親交が厚かった高村光太郎が肺結核により死去。光太郎の死を受けて心平は翌4月3日付の『朝日新聞』に「高村光太郎死す」と題する詩を寄稿した[18][注釈 2]。 1969年には前掲の詩「高村光太郎死す」などを収録したエッセイ集『わが光太郎』[19]を刊行。 1970年(昭和45年)1月、『わが光太郎』が第21回読売文学賞(評論伝記部門)を受賞する[20]。
天山文庫
詩業の集成