草野心平
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同じ頃、日本から送られてきた宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読み感銘を受ける[2][3]。12月、謄写版詩集『鞜青』を刊行する[2]

1925年(大正14年)2月、謄写版詩集『919』を刊行する[4]。4月、同人誌『銅鑼』を創刊[4]、宮沢賢治や八木重吉らを同人に誘う[3]。賢治は参加したが[3]、重吉は佐藤惣之助の『詩之家』に参加していたため加入しなかった[5]。それでも心平はに住んでいた重吉を自宅まで訪ねている[6]。7月、排日運動の激化により大学は卒業せずに日本に帰国する[4]。8月、『銅鑼』の同人の1人がモデルをしていたことから、高村光太郎を訪問し知り合い、以後親交を深める[4]

1928年(昭和3年)6月、同人誌『銅鑼』を16号をもって終刊する[4]。同月、継母の異母妹にあたる江島や満と結婚、9月には東京から群馬県前橋市へ転居する[4]。11月、活版印刷としては初の詩集となる『第百階級』を刊行する[4]。全篇がをテーマにしたものであり、以後も、この生物を扱った詩を書き続けた。12月、詩誌『学校』を創刊する(翌年の10月に7号で終刊)[7]
『歴程』創刊

1929年(昭和4年)6月、上毛新聞社に入社し校正部に勤務する[4]。7月、長男が生まれる[7]。9月頃から前橋に帰郷していた萩原朔太郎と交流をもつ[8]1930年11月、上毛新聞社を退社し帰郷する[8]

1931年(昭和6年)1月、小野十三郎萩原恭次郎との共訳で『アメリカプロレタリヤ詩集』を刊行する[8]。2月に上京、5月に麻布十番で屋台の焼き鳥屋を開店する(翌年5月に閉店)[8]。9月、謄写版詩集『明日は天気だ』を刊行する[8]。1932年(昭和7年)、実業之世界社に入社し、編集校正を担当する[8]

1934年(昭和9年)1月、宮沢賢治が前年9月に亡くなったことを受け『宮沢賢治追悼』を編集・刊行する[8]。賢治には生前に会う機会はついになく、高村光太郎経由で訃報を知り花巻の実家を訪れることになった。5月、帝都日日新聞(発行:実業之日本社)に移籍する[8]。10月、心平が共同責任編集者となった『宮沢賢治全集』(文圃堂書店)の第1巻が刊行、全集は全3巻で翌年9月に完結した[8]

1935年(昭和10年)5月、詩誌『歴程』を創刊する[8]。創刊時の同人は、心平、岡崎清一郎尾形亀之助高橋新吉中原中也土方定一菱山修三逸見猶吉、宮沢賢治(物故同人)の9名で、その後、山之口貘伊藤信吉、小野十三郎らが加わった[8]。『歴程』は1944年(昭和19年)3月に中断するまでに26号まで刊行された[9]。11月には詩誌『コスモス』の創刊に参加した[10]
南京時代

1938年(昭和13年)2月から4月まで、帝都日日新聞の記者として満州中国を視察する[10]。そのときの模様を『支那点々』(三和書房、1939年)にまとめている(なお、同時期の日記は現存しない。また南京陥落の1937年12月には南京には滞在していない)。12月、詩集『蛙』を刊行する[10]1939年(昭和14年)2月、『蛙』出版記念会を開催、谷川徹三、萩原朔太郎らも出席する[10]。3月、祖母のトメが89歳で死去する[10]。11月、帝都日日新聞を退社し、翌月、東亜解放社に入社、月刊『東亜解放』の編集長となる[10]

1940年(昭和15年)7月、中華民国中央政府(南京政府)の招き[注釈 1]で同政府の宣伝部顧問として中国へ渡る[11]。翌年7月からは家族も帯同し、1946年までの約6年間を南京で過ごすことになる[12]大東亜文学者大会(帝国劇場)に中華民国(汪兆銘政権)代表として出席、1943年に汪兆銘政権が英米に宣戦布告した際には「宣戦布告」という詩を「読売新聞」に掲げている。

1945年(昭和20年)7月、南京駐在陸軍により現地召集され兵役につく[12]。陸軍二等兵。8月の敗戦で全財産が没収され、南京日僑集中営に約半年間収容される[12]1946年(昭和21年)3月、上海から帰還船LSTに乗船、31日、生家着。
『歴程』復刊

1947年(昭和22年)7月、『歴程』を復刊する[12]。10月、故郷の小川郷駅前に貸本屋「天山」を開店する[12]1948年(昭和23年)、貸本屋を8か月で閉店後、8月に単身上京する[12]。千葉県の浦安に落ち着き、のち江戸川区へ。1949年(昭和24年)8月、練馬区下石神井の御岳神社社務所に移り、郷里から家族を呼ぶ。神田神保町にあるラドリオが開業した同年のクリスマスには古田晁とラドリオで初めて対面している[13]。またラドリオでは、中華がゆが提供されていたことがあり、草野の友人から習って提供したことから「心平がゆ」と名付けてもよいといわれていた[14]

1950年(昭和25年)1月、一連の「蛙の詩」により第1回読売文学賞(詩歌部門)を受賞する[15]。11月、日本文芸家協会理事に就任する[16]1951年(昭和26年)3月、現代詩人会が創設したH氏賞の第1回選考委員を務める[16]


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