草野心平
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1951年(昭和26年)3月、現代詩人会が創設したH氏賞の第1回選考委員を務める[16]
居酒屋「火の車」

1952年(昭和27年)3月、文京区小石川田町に居酒屋「火の車」を開店する[16]

1953年(昭和28年)、福島県双葉郡川内村長福寺の住職矢内俊晃の招聘で同村平伏沼にモリアオガエルを見に行く。

1954年(昭和29年)4月、現代詩人会幹事長に選出される[16]。「読売新聞」に、汪兆銘を描いた小説「運命の人」を連載した。

1956年(昭和31年)、平伏沼畔に心平の歌碑が建立される。12月、居酒屋「火の車」を閉店する[16]1957年(昭和32年)4月、日本ペンクラブ理事に就任する[16]
天山文庫

1960年(昭和35年)6月、新宿御苑前にバー「学校」を開店する[17]。9月、福島県川内村の名誉村民となる[17]

1963年(昭和38年)10月、北多摩郡東村山町南秋津(現:東村山市秋津町)に建てた家に転居する[17]

1965年(昭和40年)8月、日本現代詩人会会長になる[17]

1966年(昭和41年)7月、川内村名誉村民の褒賞として建設された天山文庫が完成する[17]。その後毎年7月に天山祭りが開催されるようになる。
詩業の集成

1956年4月2日、親交が厚かった高村光太郎が肺結核により死去。光太郎の死を受けて心平は翌4月3日付の『朝日新聞』に「高村光太郎死す」と題する詩を寄稿した[18][注釈 2]

1969年には前掲の詩「高村光太郎死す」などを収録したエッセイ集『わが光太郎』[19]を刊行。

1970年(昭和45年)1月、『わが光太郎』が第21回読売文学賞(評論伝記部門)を受賞する[20]。6月、詩集『太陽は東からあがる』を刊行する[20]。7月、韓国ソウルで開催された第37回国際ペン大会に川端康成と共に招待される[20][21]。9月、評論『わが賢治』を刊行する[20]

1973年(昭和48年)5月、『草野心平詩全景』(筑摩書房)が刊行される[20]1974年(昭和49年)9月、妻・や満が66歳で死去する[20]。この年から1年の1冊のペースでの「年次詩集」の刊行を開始し、1986年までに12冊の詩集を出す[20]

1975年(昭和50年)、日本芸術院会員となる[22]

1976年(昭和51年)、3月29日、東京都東村山市秋津にある自宅に隣家の火事が類焼し半焼。草野本人は避難して無事だった。1977年(昭和52年)4月、勲三等瑞宝章を受章する[22]1978年(昭和53年)5月、筑摩書房より『草野心平全集』の刊行開始、1984年5月に全12巻で完結した[22]

1983年(昭和58年)10月、文化功労者になる[22]1984年(昭和59年)7月、いわき市名誉市民となる[23]
最晩年

1986年(昭和61年)6月、最後の詩集となる『自問他問』を刊行する[24]。8月、脳梗塞で倒れ入院、12月に退院する[24]1987年(昭和62年)3月、再び脳梗塞で倒れ入院、7月に退院するが9月に再入院する[24]。10月、文化庁より文化勲章授章の打診を受け、11月に車椅子で伝達式に出席する[24]

1988年(昭和63年)11月12日、自宅で体調を崩し、搬送先の埼玉県所沢市所沢市市民医療センター急性心不全のため死去[25]


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