この年の大河ドラマは「従来にない時代をやりたい」という制作陣の意向で、まず吉川英治の『私本太平記』、次に司馬遼太郎の『坂の上の雲』が挙がったが、いずれも「時期尚早」として却下された[1][注釈 1]。そこで、鎌倉時代を取り上げることになり、承久の乱で武家が上皇3人を流罪にした点を「歴史上の転換点」と捉え、そこから北条政子が浮上して、永井の『北条政子』が目にとまった[1]。ただ、女性主人公はまだ困難とみられたことから前半の主人公を源頼朝とするダブル主人公でのドラマ化となる[1]。頼朝が中盤で死んだ後は、主役に北条政子が繰り上がる(クレジットがトメからトップに変わる)スタイルは、大河ドラマでは『国盗り物語』以来2例目である。ただ、前半も視点としては政子に重きが置かれ、実質的には政子が全体の主人公という趣が濃い[注釈 2]。
制作陣は永井と面会して承諾を取り付け、鎌倉時代を扱った他の作品も使ってよいと永井から提案される[2]。永井は、「時代劇を脚色した人でない人」「(原作同様)現代口調でやってもらいたい」という条件を付け、中島丈博が脚本に起用された[2][注釈 3]。中島も現代語の脚本を望み、プロデューサーの齊藤暁も現代語でやるべきと考えており、方針が一致した[2]。この結果、セリフ面では現代語や現代語調が多用され、主役の岩下志麻は「現代語口調のセリフはとても良かったですね。今私たちが使っている言葉ですから、役に入りやすかったという記憶があります」と後年述べ、本作以降の大河ドラマでも次第に増加した[4]。同じく主役の石坂浩二は、現代語調は東国の人物に限られ「時代劇言葉を使う京都の平家たちとの対立を表現しました」と述べるとともに、現代語調を採用したことは「正しかったと思いますね」と評価している[5]。
一方で人名を呼ぶ際には可能な限り諱ではなく通称や官位を用いており、諱呼びが大変な非礼とされていた当時の慣習を極力反映させている。
中島の書いた脚本は、身分を問わずに登場人物の大半が何らかの弱さや醜さを持っているという特徴があった[2]。これについて中島は「ブラウン管から歴史を引っ張り出す」と述べ、齊藤も「英雄譚からの脱却」を意図したと語っている[2]。
撮影では、東京郊外の生田に鎌倉の街を再現したオープンセットを作り、合戦でもロケーション撮影を多用した[6]。合戦の撮影は茨城県の大洗海岸や、静岡県の東富士演習場で行われている[7]。
演出面では物語を群像劇として活写している。劇中では主要な登場人物の死亡シーンと言えども情緒過剰な演出で描かれることがほとんど無く、残された人間達による伝聞や報告といった回想シーンで断片的な映像を用いて語られる場合が多い。
それまでの源平を題材にした作品が、どちらかといえば平家や源義経を中心とした物語なのに比べて、この作品では平家方の描写は少なく、頼朝と、頼朝を担いで挙兵した東国武士団の動きに焦点が当てられ、歴史観も「源氏の旗揚げは、東国武士団の旗揚げでもあった」という立場で描かれている。平家滅亡と義経の死後、頼朝の征夷大将軍任命や落馬による死去、2代頼家・3代実朝の時代に打ち続いた幕府の内紛とその過程で進行した北条家の政権掌握が朝廷の動きを含めて丁寧に描かれた。承久の乱については、原作『北条政子』が乱の直前で終わっており、ドラマでは最終回の1話のみで描かれた。
「悲劇のヒーロー」として「判官贔屓」の対象だった源義経とそれを殺した「悪役」とされた頼朝の関係を、朝廷からの武家の独立を望む頼朝と政治に無知で朝廷の誘いに乗る義経という形に逆転させている[8]。純朴で好学の青年だった北条義時(松平健)は、頼朝死後の幕府内で繰り広げられた政争の荒波を乗り越えていくうちに次第に変貌を遂げ、政敵と見なした御家人を様々な計略をめぐらして容赦なく排除・殺害していく冷徹な権力者として、若き日とは全くの別人格となっていく様が描かれた[9]。