英蘭戦争
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また、オランダの沿岸は水深が浅いため、喫水が深くなる大型艦が運用しづらいという事情もあった。

これに対してイングランド側はよく装備された大型軍艦を投入、単縦陣という戦術でオランダ海軍と拮抗した。ヨハン・デ・ウィットら一部の進歩的政治家や現場の海軍士官たちは大型艦の必要性に気づいていたが、対応は遅れた。1652年から1653年にかけてオランダのマールテン・トロンプ提督は、ロバート・ブレイク率いる優勢なイングランド海軍に対して奮戦したものの装備の差はどうすることもできず、ドーバーの海戦(英語版)やプリマスの戦い(英語版)やケンティッシュ・ノックの海戦(英語版)ではイングランド側優勢であった。オランダはダンジュネスの海戦(英語版)で勝利したものの、ポートランド沖海戦(英語版)では敗れた。重傷を負ったブレイクと交代したジョージ・マンクがガッバードの海戦(英語版)でオランダ海軍を破り、デン・ハーグ沖のスヘフェニンゲンの海戦(英語版)でトロンプ提督が戦死してオランダはイギリス海峡の制海権を失った。オランダ船団はスコットランドの北を大きく迂回してオランダ本国に帰国しなければならなくなった。

イギリス海軍はオランダ諸港の封鎖を続け、貿易立国のオランダは大打撃を受けたといわれているが、実際のところ、大した損害は蒙っていない。イングランドの護国卿となっていたクロムウェルは、理想主義的なプロテスタント英蘭の対等な合邦論を唱えたが、1654年に和議に応じウェストミンスター条約(英語版)が成立、戦争は終わった[2]
第二次英蘭戦争第2次英蘭戦争中の1666年6月11日から14日にかけて海戦が行われた(エイブラハム・ストーク画)詳細は「第二次英蘭戦争(英語版)」を参照

1665年から1667年にかけてチャールズ2世を戴く王政復古後のイングランド王国と、デ・ウィットの率いるオランダの間で展開された。イングランド軍が北アメリカにおけるオランダ植民地ニューアムステルダムを占領したことが発端となった。前回同様イングランド艦隊はオランダ商船の拿捕やオランダ諸港の封鎖を行おうとしたが、財政難で失敗した。

イングランド海軍はチャールズ2世の弟で海軍卿のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)と、ヨーク公の従兄のカンバーランド公ルパート、共和政でイングランド海軍の提督だったサンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューが指揮を執っていた。オランダは陸軍出身で政治的人事で登用されたオブダム提督が司令官として海軍を率いてイングランド海軍と戦うことになる。

1665年、ヨーク公率いるイングランド海軍はローストフトの海戦で勝利したものの、ここでオブダム提督が戦死し、アフリカから帰国したミヒール・デ・ロイテルがオランダ艦隊司令長官となり、戦況は芳しくなくなっていく。ヨーク公はチャールズ2世の後継者でもあるため、万が一の危険を恐れたチャールズ2世の命令で後方に回され、サンドウィッチが不正疑惑で左遷されると、第一次英蘭戦争で活躍したマンクが復帰してルパートと共に戦った。

1666年フランスがオランダと同盟を結んで宣戦布告したことを知ったイングランドは、ルパート艦隊をフランス艦隊に差し向けたが、戦力を分散したままオランダ海軍に遭遇、マンクはオランダ海軍より少ない艦隊で交戦する羽目になった(4日海戦(英語版)6月11日から14日旧暦では6月1日から4日))。4日目にはルパートの艦隊が合流し、イングランド側が戦力的に優位に立ったが、それでもイングランド海軍は大損害を受けて敗北した。オランダ海軍の損害は僅かだったが、マンクは戦果を過大に報告した。7月に起こった聖ジェイムズ日の海戦(英語版)では、イングランド海軍は前回の反省からマンクとルパートが共同戦線を張りオランダ海軍と対決、一応は勝利を飾った。またもマンクは戦果を誇大に報告したが、実際の損害は英1隻、オランダ2隻で、双方ともごくわずかであった。余勢を駆った8月のオランダ沿岸襲撃(ホームズの焚火)も成功を収めたが、その翌月にはオランダ艦隊は再び海峡に進出しており、イングランド優勢とはならなかった。しかし、オランダ側はゼーラント海軍司令部の名将ヨハン・エベルトセンを始めとする5人の将官が戦死する痛手を受けた上に、命令無視をとがめられたコルネリス・トロンプ(マールテン・トロンプの息子)が解任された。この後、オランダ側はイングランドの同盟国であるドイツの小諸邦からの陸軍の侵入や、艦隊司令官デ・ロイテルの病気療養などもあって、海上において積極的な行動は取らなかった。

この戦争が始まるとイングランドではペストが流行したり、ロンドン大火が起こったりして財政難に陥り厭戦気分が漂った。翌1667年、和平を考えていたデ・ウィットはロイテルと兄コルネリス・デ・ウィットを乗せたオランダ艦隊をテムズ川に侵入させてチャタム周辺に停泊中の軍艦を焼き討ちにし、イングランド艦隊総旗艦ロイヤル・チャールズを含めた数隻を捕獲した(メドウェイ川襲撃)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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