ブランクの末、ふたりは音楽ショウののらくろショウの紹介で帰阪し、籠寅興行のもとで活動を再開させる。漫才のかたわら軽演劇団で活動していたが、公演の移動中、新世界で暴力団とタクシーの乗降をめぐるトラブルが起き、はんじが胸を刺されて負傷する。これが原因となり、劇団は解散する。
はんじは失意のあまり、酒を暴飲する日々を過ごす。その様子を見た漫才作家秋田實が、ふたりの再起を図り、上方演芸(のちの松竹芸能)にスカウトする。
1957年に「福児・笑児」として新花月に出演[4]。1959年に「デイト チック・ヤング」と改名(のちのはんじがチック、けんじがヤング[4])。1960年10月に「若井はんじ・けんじ」と改名し、道頓堀角座で披露興行を行った[2]。1964年から1973年にかけ、MBSテレビ『ダイビングクイズ』の司会を務め、人気を博した[2]。1968年よりケーエープロダクションに在籍。 テンポの早いやりとり[1]で知られ、はんじの「頭の先までピーコピコ[1][6]」や「ゴメ?ンネ[6]」といったギャグが流行語となった。 もともと「頭の先までピーコピコ」は、はんじの口癖であった。永六輔がこれに注目し、彼らのために自身初めての漫才台本を書いた際、つかみネタに入れた。これが舞台でウケたので、その後ギャグとして定着した。1970年代の大阪を舞台にした映画『岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS』(1996年)の作中、岡村隆史が演じる小鉄がこのギャグを言うシーンがある。
受賞歴
1966年 第1回上方漫才大賞 新人賞[1]
2011年 第15回上方演芸の殿堂入り[2]
家族・親族
ふたりの祖父は荒川千成門下の初代荒川ラジオ。
両親は同門の荒川久丸・千夜子[1][2]。
はんじの妻は「大美劇団」で女同士の漫才をやっていた元座長。はんじ・けんじが売れ始めたころに引退。後に離婚。
けんじの最初の妻は、はんじ・けんじの両親と親交があった元芸人の興行師・河内家目玉の次女・加茂川ちどり。結婚後すぐにけんじの浮気が原因で離婚。けんじはその後、電気店の娘と再婚。村山実が仲人を務めた[3]。
弟子
直弟子
若井ろくじ・はちじ[7]
若井ぼん・はやと
若井小づえ・みどり
若井チック・ヤング
若井けいじ・えいじ
孫弟子
ぼん・はやとのぼんの弟子
ミッサン
ぼん・はやとのはやとの弟子
ホープユタカ
山田雅人
森脇健児
若井りき・ゆうき
黒井博之
宮崎げんき
大阪キッズ
若井やるき・たまる
若井ひでと
竹井輝彦(ビッグブラザーズ)
小づえ・みどりの小づえの弟子
若井のん・のこ
小づえ・みどりのみどりの弟子
若井気合・こころ
豊間若葉
けいじ・えいじのけいじの弟子
若井めがね・かめら
若井しもべ
芸風・ギャグ
出演
テレビ
ドラマ
水戸黄門 第8部 第21話「黄門さまも人の親 -高松-」(1977年12月5日、TBS / C.A.L) - 講釈師 ※けんじのみ
日本名作怪談劇場 第10話「怪談 死神」(1979年、12ch)- 上州屋の番頭 ※けんじのみ
その他
ダイビングクイズ(毎日放送)
ラジオ