若井はんじ・けんじ
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その後はファンの仲介で天王寺のスナックのマスター[3]となったり、シャッター製造会社を設立したりするなどしたのち、1983年9月に東大阪市議選に出馬し、初当選。民社党会派に所属[4]。2期目を目指した1987年9月[4]には、膝を悪くした影響で選挙活動が思うように行なえず、また定数削減のあおりを受け次点で落選[3]し、芸能界に復帰。漫談をしていた[2]が、同年自動車事故[3][6]のため死去。
コンビ略歴

1948年[2]名古屋市の寄席において、「荒川福児・笑児」の名で兄弟初舞台を踏む(のちのはんじが福児、けんじが笑児[4])。はんじと舞台に立っていた千夜子はこのとき裏方に回る。幼少期に長く名古屋を拠点としていた影響で、後年まで名古屋なまりが残った[3]。やがて旅回りの浪曲師・宮川右近の紹介で北海道を拠点とするが、右近がギャラを持って失踪する。

ブランクの末、ふたりは音楽ショウののらくろショウの紹介で帰阪し、籠寅興行のもとで活動を再開させる。漫才のかたわら軽演劇団で活動していたが、公演の移動中、新世界暴力団とタクシーの乗降をめぐるトラブルが起き、はんじが胸を刺されて負傷する。これが原因となり、劇団は解散する。

はんじは失意のあまり、酒を暴飲する日々を過ごす。その様子を見た漫才作家秋田實が、ふたりの再起を図り、上方演芸(のちの松竹芸能)にスカウトする。

1957年に「福児・笑児」として新花月に出演[4]。1959年に「デイト チック・ヤング」と改名(のちのはんじがチック、けんじがヤング[4])。1960年10月に「若井はんじ・けんじ」と改名し、道頓堀角座で披露興行を行った[2]。1964年から1973年にかけ、MBSテレビダイビングクイズ』の司会を務め、人気を博した[2]。1968年よりケーエープロダクションに在籍。
受賞歴

1966年 第1回上方漫才大賞 新人賞[1]

2011年 第15回上方演芸の殿堂入り[2]

家族・親族

ふたりの祖父は
荒川千成門下の初代荒川ラジオ。

両親は同門の荒川久丸・千夜子[1][2]

はんじの妻は「大美劇団」で女同士の漫才をやっていた元座長。はんじ・けんじが売れ始めたころに引退。後に離婚。

けんじの最初の妻は、はんじ・けんじの両親と親交があった元芸人興行師・河内家目玉の次女・加茂川ちどり。結婚後すぐにけんじの浮気が原因で離婚。けんじはその後、電気店の娘と再婚。村山実が仲人を務めた[3]

弟子
直弟子


若井ろくじ・はちじ
[7]

若井ぼん・はやと

若井小づえ・みどり

若井チック・ヤング

若井けいじ・えいじ

孫弟子


ぼん・はやとのぼんの弟子

ミッサン


ぼん・はやとのはやとの弟子

ホープユタカ

山田雅人

森脇健児

若井りき・ゆうき

黒井博之

宮崎げんき

大阪キッズ

若井やるき・たまる

若井ひでと

竹井輝彦ビッグブラザーズ



小づえ・みどりの小づえの弟子

若井のん・のこ


小づえ・みどりのみどりの弟子

若井気合・こころ

豊間若葉


けいじ・えいじのけいじの弟子

若井めがね・かめら

若井しもべ


芸風・ギャグ


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