苗字
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八幡太郎とは義家の通称)の四男の源義国(足利式部大夫義国。足利は義国の母方の里の地名、式部大夫は役職)の長男の源義重が、新田荘を開墾し、そこを所領とし、藤原忠雅に寄進して荘官に任命されたことから新田荘の荘名を名字にしたことに始まる。義助は兄の義貞が相続した嫡宗家から独立して新田荘内の脇屋郷を分割相続して住んだことから、脇屋を自己の名字とし、脇屋義助と名乗った。ただし、新田氏は源頼朝から門葉として認められなかったため、鎌倉時代には幕府の文書に「源○○」と署名、記載されることはなかった。[要出典]

この頃の名字は家名としての性格が弱く、いわゆる北条泰時は江間太郎を称した後、父の相模守就任後は「相模太郎」(相模守の嫡男の意)を称し、任官後はもっぱら官名で呼ばれており、 「相模修理亮泰時」と称することはあっても実際に北条(條)の名字で呼称された事実は無い。北条時宗も同様であり、実際に北条の名字を名乗った北条氏は少数派である[3]三浦氏も同じ。これを重視する見地からは、当時の「北条」や「三浦」は居住地を表すものに過ぎず家名としての名字ではない、南北朝時代以降嫡子単独相続が主流となり、ほかの兄弟が改称せず配下としてとどまるようになったことで、単独相続を前提とした家産が成立すると、父から嫡男へと家産を継承する永続性を持った「家」が出現することになる。永続する家は個々人から独立した組織体であり、そのような組織体を指し示す呼称を家名として名字が成立したと説明されている[4]

そして、室町時代から江戸時代になると、姓(本姓)は、もっぱら朝廷から官位を貰うときなどに使用が限られるようになり、そのような機会を持たない一般の武士は、姓(本姓)を意識することは少なくなった。事実、江戸幕府の編纂した系図集を見ると、旗本クラスでも姓(本姓)不明の家が散見される。一方で、一般の人であっても朝廷に仕えるときは、源平藤橘といった適切な姓(本姓)を名乗るものとされた。また、一部の学者等が趣味的、擬古的に名乗ることもあった。したがって、名字は支配階級の象徴として固定化されたが、姓(本姓)の有無は支配階級の象徴として本質的なものではなかったのである。

公家・武士ともども、名字の下に直接接続するのは通称であり、諱を直接つなげる場合は、姓(本姓)に対してが通常であった。ただし名字と諱を直接つなげることも、皆無ではなかった[注 2]。下級武士においては、通称のみで諱を持たない者も少なくなかった。
庶民の名字

古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓(本姓)を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。

名字は、本姓と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで自ら名乗ることが可能だった。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。

1577?1610年まで日本に滞在したジョアン・ロドリゲスは、漁師や身分の低い職人のような最下層の人々を除き、大衆は皆名字も持っていると報告している[5]

江戸時代には苗字帯刀が制限されたことから、庶民の多くには「名字がなかった[6]」と語られることがある。しかし、1952年の洞富雄の研究を契機に、そのような時代でも私的には貧農すらも名字を持ち、行事等で使用していた事例が全国から大量に報告され、庶民に名字がなかったというのが学問的に否定された[7]。明治以降、名字を持っていなかったか不明となっていた場合には新たに「創氏」しなければならなかった際に歴史上有名な人物の名字や魚、野菜の名などを戸籍に登録した例がおもしろおかしく伝えられたので、庶民は名字を持っていなかったという「俗説」が生まれたのだと説明されている[8]。特に農村上層部では名字とは別に姓(本姓、源平藤橘)を名乗る者もあり、甲斐国の地主「依田民部源長安」(1674?1758)のように、源姓と百官名を自称する者さえいたことが確認されている[9]
女性名と夫の家の名字

中世、姓(本姓)は生まれながらのものでも名字は、まだ現住所を示すようなものだったので、既婚女性もその居住地の地名で「稲毛の女房」などと呼ばれた(吾妻鏡)。夫婦同名字の例と主張されている(高橋秀樹)[10]

また当時の文書の比較検討から、鎌倉時代には「藤原氏女」のように実家の姓(本姓)を名乗る人名表記が依然主流だったが、南北朝時代には衰退し、個人名のみを名乗るか、既婚女性は「?後家」のようにもっぱら妻としての名称を名乗ることが一般化していったことが明らかにされている(細川涼一[11]。公家の摂関家でも正室は婚家の主要な一員と認識され、婚家の名字+妻の社会的地位で呼ばれるようになり(例:九条尚経の娘、二条尹房正室経子=二条北政所伏見宮貞敦親王の娘、二条晴良正室位子女王=二条北政所など)、夫婦同名字だったと主張されている(後藤みち子)[12]

これに対しては、女房、妻、後家などをその人自身の名前の要素と認めない立場[13]も主張されている。このような立場からは、公的活動が認められていなかった女性には、名字は無縁の存在であった。この場合の妻の名字も夫婦別名字であったが、公儀・公務に関わりがなかった妻にとって名字は重要ではなかった、「〇〇女房△△」「〇〇内儀△△」の表示で十分であったと主張される[14]。もっとも、仮名(けみょう)は本来固有名詞ではなく続柄を表すもので、「太郎」は長男、「大姫」は長女、「小太郎」は太郎の長男の字義である[15]

平安?鎌倉時代には女性が出自の姓(本姓)を用い文書に署名している例は多いが、家社会となった中世後期以降は女性は家長との続柄で表示するのが通例で史料で女性の名字を確認するのは困難とされる。ただ、まれには女性が明らかに名字を冠して文書に登場することもあり[16]、室町時代の丹波国山国荘の百姓の文書には夫婦同苗字の記録が三例ほど存在する。井戸村の江口家が菩提寺に寄進で「江口沙弥道仙禅門、同妙珠禅尼夫婦」と記したケース、同荘枝郷の下黒田村の坊家において、夫婦が娘に田地を与える譲り状に「坊姫・坊又二郎」と署名したケース、同村の鶴野兵衛二郎が井本家に嫁いだ姉の「さいま」に山林を譲った宛所が「井本さいま」となっていたケースの事例から、少なくとも同地では夫婦同名字が一般的だったとされる[17]

近世では幕末の歌人竹村多勢子のように婚姻後も実家の名字を署名した例が散見される[18]。しかし、それが掲載されている『平田先生門人姓名録』では、生家の名で登録されている既婚女性が多勢子含め5名であるのに対し、婚家の名で登録されているのは10名であるため、多勢子の例をもって夫婦異名字が原則だったというのは疑問だとの批判がある(柴桂子)[19]

中世が夫婦同名字だったとすると、なぜ近世に別名字の事例も登場したか問題となるが、家名としての名字が父子相承され父系血統の標識たる氏(本姓)と同化したことへの表れではないかという説がある(大藤修[20]

もっとも、近世では夫婦の名字に関する法的規制は存在せず女性の名称の表記には多様性があった。 ただし、名字の原理(父から子に父系の血統で継承される)と慣習から夫婦は別名字であり既婚女性の名字認識は基本的には生家に連なった。 そうしたなかで近世後期には婚家への帰属意識から妻が夫の名字を称する女性も現れていたとの主張もある[21]

当時の女性は「諏訪宇右衛門娘 きた」「百姓儀右衛門女房 しげ」「大和屋宇蔵同家母 まさ」などと呼ばれ、そもそも女性の人名表記は父や夫や息子などの当主の名称と続柄で記載し、「婚姻により名字が変わる・変わらない」という観点が無い[22]
明治以後の名字

明治政府も幕府同様、当初は名字を許可制にする政策を行っていた。幕府否定のため幕府により許可制で認められていた農民町人の名字を全て禁止し(慶応4年9月5日1868年10月20日))、賜姓による「松平」の名字を禁止したり(慶応4年1月27日(1868年2月20日))する一方、政府功績者に苗字帯刀を認めることもあった。明治2年7月(1869年8月)以降、武家政権より天皇親政に戻ったことから、「大江朝臣孝允木戸」のように姓(本姓)を名乗ることとした時期もあった。

明治3年(1870年)になると法制学者の細川潤次郎や、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、庶民への名字を原則禁じる政策は転換された。同年9月19日10月13日)の平民苗字許可令の布告を発した。これは江戸時代に「上下の区別」を重視した社会において幕府によって創設した身分標識機能の格式の破棄が目的で、一般庶民に対し名字の公称を政府が特別の許可を与えるものだったのをやめ、自由化したのであった。 しかし、庶民側の必要に応じたものではなく、庶民にとっては名字は人名として必要不可欠なものではなかったので、その結果、名字を名乗るも名乗らないも各自の勝手という状態になった[23]

明治4年10月12日1871年11月24日)には姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に姓(本姓)を名乗ることはなくなった。氏・姓は用語も混乱していたが、この時点で太政官布告上は、源平藤橘や大江などのいわゆる氏(ウジ、本姓)は「姓」、朝臣、宿禰などの姓(カバネ)は「尸」というように分類したのである。

明治5年5月7日1872年6月12日)の「通称実名を一つに定むる事」(太政官布告第149號)により公的な本名が一つに定まり、登録された戸籍上の氏名は、同年8月24日9月26日)の太政官布告により、簡単に変更できなくなった[24]

明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった。

徴兵制度(明治6年施行)を厳格に実行するため、徴兵事務の必要から依然として名字を使用していない平民が多いという事実に政府が国民管理の上で不都合と判断し、国民一人一人の「氏名」の管理を徹底するため名字使用を強制する布告であった[25]


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