4月、芹沢・近藤・新見らは大坂に下って今橋の平野屋五兵衛から百両を借用した。
5月24日、中山忠能邸に参上した正親町公董の話の中で、「有志士」として、今泉与一太郎と共に言及される[32]。「芹沢カモ」と表記されており、名前の読み方が確定された史料でもある[32]。翌25日には、同志全員の筆頭として松平容保に攘夷実行の上書を提出した[33]。
6月3日、芹沢・近藤ら10人が「不逞浪士」取り締まりのため再び大坂へ下った。途中、すれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出た。小野川部屋の年寄が詫びを入れてことは収まったが、大坂町奉行所与力・内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されている(内山を暗殺した者については異説もある)。
同月、水口藩の公用方が壬生浪士は乱暴であると苦情を言ったことが会津藩を通して芹沢に知られ、激怒した芹沢は永倉新八・井上源三郎らを水口藩邸に派遣し、担当者を脅迫して謝罪させ、詫び証文を取った。担当者の独断で書かれた証文であったため、ことの露見を恐れた公用方は取り返そうと人を介して芹沢を説得し、芹沢は証文を返すこととなり、嶋原の角屋で宴会が開かれた。しかし酒乱の芹沢は大暴れをして店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を一方的に申しつけている(角屋での暴挙)。
8月13日、一条通葭屋町下ル福大明神町の大和屋庄兵衛宅が壬生浪士に焼き討ちされた。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺の寺侍)の『新撰組始末記』や、筆者不詳の『新選組浪士始末』は、この指揮者を芹沢だとしている[34][35]。
『七年史』所収の鈴木丹下「騒擾日記」によれば、八月十八日の政変に際して、御所の警備のために近藤とともに隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生浪士を知らなかったため、槍を構えて通そうとしなかった。通せ通さぬと双方が押し問答となる中、芹沢は哄笑しながら歩み出たため藩兵が槍を突きつけると、愛用の鉄扇でその槍を悠々と煽いだという。会津藩の軍奉行が駆けつけてその場を収めたが、芹沢は悠然と門を通っていき、人々は彼の剛胆さに驚いたという。
この出動を機に会津藩は壬生浪士に新選組の隊名を与えたとされるが、確定的な史料は存在しない。 文久3年(1863年)9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行なっている[8]。 これらの所業に、朝廷から芹沢の逮捕命令が出た[8]ことから、会津藩は芹沢の所置を命じたとも言われる。 同年13日、芹沢は土方、沖田らと水戸家の主君筋である徳川慶喜母方にあたる有栖川宮家を訪れ、壬生浪士の交名と、「警衛の用があれば何事に限らず申し付けてください」と記した書付を渡した[36]。 9月16日あるいは18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、宴席が終るとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと同衾した。 大雨が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまずいて転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけた。このとき芹沢は八木家の息子・勇之助の上に倒れ込み、刺客たちはそこに斬りつけたため、刀の鉾先が寝相の悪かった勇之助の右足に当たり、怪我を負わせたという[37]。 平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も巻き添えで首を切られ殺された。別室にいた平間は逃亡し、吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。 『新選組遺聞』では、八木源之丞の妻・まさ
暗殺
事件は長州藩士の仕業とされ、9月18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っている[38]。
芹沢の墓は京都市中京区の壬生寺にある。 芹沢鴨の暗殺日については墓碑に基づいて18日が通説となっていたが、16日が雨であることと、いくつかの風説書に基づき、16日説が主流となっている。とは言え、まだ確固たる史料はなく意見は分かれている。
暗殺日に関して
人物
芹沢の人となりについては、子母澤寛の「新選組三部作(『新選組始末記』『新選組遺聞』『新選組物語』)」に詳しいが、いずれもかなりの創作が入っているとされ、信憑性には欠ける。
芹沢は背が高くでっぷり太っており、色白で目は小さかった。豪傑肌の一廉の人物で、常に「盡忠報國の士 芹澤鴨」と刻まれた鉄扇を手にしていた。酒豪で、昼間から飲んでおり、酔っていないことはなかったと言われるほどであったという。
数々の乱暴狼藉の記録から、創作では手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれることが多いが、会津藩主松平容保へ嘆願に行く際に、八木家から紋付を借りることになったが、全員同じ家紋になってしまう(公式の場ではかなり滑稽)ことを八木源之丞が心配すると、芹沢はまったく意に介せず笑っていたり、八木家から借りた火鉢をこっそり返しに来た際、火鉢に刀傷があった(隊士たちは酔っては八木家の家財を手当たり次第試し斬りの道具にしていた)ので問い質されると、「俺だ、俺だ」と頭をかいて逃げてしまうなど陽気でおどけた一面もあった。