芸妓
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誰でも構わず身を売ることは「不見転(みずてん)」として戒められたが、第二次世界大戦後までこうした不見転はほぼどこの土地でも見られ、置屋も積極的にこれを勧めることが多かったし、芸妓に「泊まり」として売春を強要することも多く見られた。1956年、売春防止法が制定されると芸妓を取り巻くこれらの状況に変化が起こった。「不見転」や「泊まり」を売りにした置屋は打撃を受けることとなり、そういった置屋が多くあることを売りにしていた花街は衰退した。その一方で娼妓だった者らが「芸妓」を名乗ってかつての「不見転」や「泊まり」に当たる行為を行う「枕芸者」を売りにした温泉地が地方に見られるようになった。しかし、そのような事象も昭和50年代以降は徐々に見られなくなった[8]

しかし、あくまで芸妓は遊女とは区別され、一流の芸妓は「芸は売っても体は売らぬ」心意気を持ち、決まった旦那に尽くし、その見返りに金銭が報われるというのがその建前になっていた。むろん、こうした実態を嫌い、芸妓は客の自由にならぬものという気概を貫きとおし、一生涯旦那を持たない名妓も多くいた。なんの自由も無いと考えられがちである芸妓だが、恋愛の自由は昔からかなり認められていたようだ。

自らの芸によって生活する芸妓は、明治以降一種のあこがれの存在としてとらえられることも多く、雑誌で人気投票が行われたり、絵葉書が好評を博したこともあった。

明治・大正時代には、名古屋を中心とする尾濃伊(尾張、美濃、伊勢)と、新潟を中心とする北越地方が芸妓の産地と言われ、東京では美妓・名妓と呼ばれる多くがそれらの出身者だった[9]。「不見転」不見転とは、歌妓(芸妓)が客を選ぶことなく、たやすく売春すること。「みずゆき」「みず」「転芸者」などともいわれた。歌妓と大尽をかたどった、一文人形(幕末に浅草を中心に、鐚びた銭せん一文で庶民に売られた小さな土製の人形)の絵あり。『うなゐの友』(初編)に類似の絵あり。晴風は安値で体を売る不見転を、安値で売られた一文人形と対比させている。 ? 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「不見転」より抜粋[10]
旦那芸妓

芸妓の世界にはかつてこの旦那が不可欠だった。芸妓が存在する土地には旦那の存在があり、いわゆるパトロンやスポンサーといったような人物である。しかし、適度に援助したり協力する程度のものではなく、芸妓一人を見出し決めるとほとんど生涯にわたり世話をしてくれる。芸妓が若手見習いから一人前になるまでには多額の費用がかかる。この旦那は着物から持ち物、装飾品や生活費まで数百万円 - 数千万円負担する。なかには数億円出すことも珍しくはない。

この莫大な費用からしてみてもだれでも旦那になれるわけではなく、必然的にその土地の財界人やトップクラスの企業の経営者などで、多額の金銭をポケットマネーでまかなえる人物であった。一方の芸妓も芸妓になれば誰でも旦那がつくわけではなく、美貌と卓越した芸などが備わった芸妓である。若手の時に旦那がつけばいわゆる水揚げとなり、ある程度歳を重ねていても旦那様はつく。

芸妓はその旦那につくことになり、旦那はその芸妓の一番のひいきになり面倒を見て信頼関係が構築される。芸妓には目に見えての利点がある。しかし旦那は通常家庭を持っていたりするため、ある程度割り切った生活でこれといって利点はない。無論、所詮男女なのでそのようなこともあるが、建前は健全な協力である。旦那の利点は「男の甲斐性」である。「あの芸妓にこれだけのことをしてやった」「こんなに金を出した」という粋なはからい。また各土地の屈指の金持ちであるから、まわりへの財力のアピールにもなる。通常は自らの家庭と芸妓の世話の両立が原則だが、中には芸妓にのめり込みすぎて家庭が破綻したり、悪い芸妓に利用されて破産する者もいる。

後述するように、現在ではこの旦那は皆無に近い状態である。それは時代にそぐわない制度と内容であるからである。不況や、そのような粋なことをする男性が少なくなったり、また娯楽の多様化や家庭重視、金銭的な問題等から芸妓にそれだけのことをする意味がないなど、複数の要因がある。

しかし、現在でも京都などの大都市には、わずかながら旦那が存在する。一方の芸妓にも意識の変化があり、仮に申し込んだ場合に断り通常の生活や結婚を望むという芸妓もおり、やはり時代の変化と言える。このような旦那側、芸妓側、また時代の変化により芸妓文化のある地方ではこの「旦那」は見られなくなった。
政治家の妻になった芸妓元新橋芸者、陸奥宗光妻おりう

芸妓の時代と言われる明治時代には芸妓は美貌で社交上手な女性として多くの元勲に愛され、正妻となった者も少なくない。

伊藤博文 - 稲荷町・小梅(伊藤梅子

原敬 - 新橋原浅 … 新橋の下級芸者の出で美貌でもなく無教養であったが人扱いがうまく、妾を経て正妻となった[11]

板垣退助 - 新橋・小清(板垣清子)… 新橋金春通りの人気芸者だったが身受けされ権妻として入籍。

犬養毅 - 犬養千代子 … 元芸妓と言われている[12]

山縣有朋 - 日本橋「吉田屋」大和(吉田貞子)[13]

陸奥宗光 - 新橋「柏屋」小鈴(小兼とも。陸奥亮子

木戸孝允 - 京都三本木・幾松(木戸松子

西園寺公望 - 新橋・玉八(小林菊子)

桂太郎 - 新橋「近江屋」お鯉 … 妾だが正妻病身を理由に実質的な妻として振る舞った。

芸妓の現状

かつて日本全国に多くの花街(花柳界)があり、日本橋平松町、博多千代、名古屋丸の内、神奈川は蒔田、井土ヶ谷、磯子、鶴見、宮内(岡山県岡山市)釜石、小樽、奈良市南市町、徳山市才ノ森、倉吉岩倉町、千葉市蓮池、富山県朝日町の泊、など全国の遊郭街芸者町に芸妓も多数いた。第二次世界大戦以後は、児童福祉法の制定によって子どもの頃から仕込むことが困難になり、更に昭和40年代には娯楽と接客の多様化により花柳界も衰退し、芸妓の数は減り続けることとなった。宴席においては、芸妓よりも安価で歳の若い「コンパニオン」と呼ばれる酌婦を呼ぶことのほうが増え、特に地方で顕著であったが、芸妓としての下積み修業を積んでも宴席に呼ばれないのでは稼げぬとして、芸妓にはならずにスナックやクラブに勤める者が増え、芸妓であった者もそれらに転業する例が多く見られた[8]

近年、海外では日本文化の人気に伴い芸者業に脚光が浴びせられている。オーストラリア人芸者であるフィオナ・グラハムは2007年に浅草でお披露目し、その後排除された。現在は深川で働いている。[14]2015年には深川の芸者衆に招かれ、この地の花柳界に。置屋を開いて若手を育て、海外にも芸者文化を発信している。[15]

現在は17?18歳ほどでデビューする芸者が多い。那制度はほぼ無しに近い状態で、芸妓一人一人自前で着物などを用意する。

深川芸者は、通常の芸者衆の宴会仕事だけでなく、外国人に向けてさまざまな観光活動も行っている。

? 骨董市ガイドツアー

このツアーでは、専属の骨董市ガイドが、様々な骨董市を案内する。

? 若手芸者との食事

深川芸者衆の若手芸者衆と、深川の飲み屋街にある小さなカウンターバーで、宴会よりもずっと安く、手頃な値段で会える取り組み。

? 芸者宴会

東京でユニークな芸者体験ができる。東京の伝統的な茶室で、プロの芸者衆によるプライベートな宴会が行われる。

? 芸者学校の見学

普段は非公開の芸者衆の稽古を2時間にわたって見学する。

? 芸者とのショッピングツアー

芸者衆が使うものを買うための店で、芸者と買い物を楽しめる。

? 歌舞伎ツアー

歌舞伎の歴史や舞台芸術の進化を、歌舞伎ガイドが解説する。歌舞伎の歴史や舞台の背景を知ることで、より深く歌舞伎を楽しむことができる。

? 着物ショッピング

このツアーでは、着物専門家が、男性用・女性用の美しい着物を格安で購入できるリサイクル着物店を案内する。

? 芸者とのお茶会

若手芸者による茶道の稽古を見学することができる。

? 芸者のメイクの見学

若い芸者が伝統的な化粧を施し、仕事のための衣装を選ぶのを間近に見ることができる。

? 深川芸者と屋形船で宴会

東京湾を周遊する屋形船で、日本料理の宴会を楽しめる。芸者衆がお座敷でお喋りしたり、写真を撮ったり、芸を披露してくれる。

? 鎌倉月影亭伝統的個室芸者宴会

鎌倉にある築100年の古民家で、2名以上の芸者衆による食事会を開催する。

? 東京・深川地区での伝統的な団体宴会

東京でユニークな芸者体験ができる。伝統的な茶室で食事を楽しみながら、2人の芸者がおもてなしをしてくれる。芸者の食事は2時間程度で、その間、芸者との会話や踊りを楽しむことができる。

? 着物の着付けと芸者さんとの写真撮影

着物を着て、2時間の着付け体験をする。着物の専門家と一緒に、深川芸者町にある着物屋で、自分だけの着物と帯、足袋、草履、髪飾りを選ぶ。着物についての知識、着物のコーディネート方法、着付けを学ぶことができる。
現在の芸者町と取り組み「花街#近年の状況」も参照

後継者不足のため、花街側は頭を抱えている状況だが、地域で取り組みがなされ始めている。山形県や秋田県では会社制度に転換したりして後継者を育成し続けている。各地の温泉街、盛岡芸妓の岩手県盛岡市、さっぽろ芸妓(げいぎ)育成振興会が設立された札幌市、土佐芸妓の高知、やまがた舞子・山形芸妓の山形、下関芸者の下関、「芸子衆(げいこし)」の丸山、老舗料亭らが芸妓組合を立ち上げた横浜、「駿河芸妓まつり」や伝統芸能振興会が伝承と後継者の育成に取り組む静岡、元林院町(奈良県奈良市)木更津市(千葉県)や、大阪の花街金沢の花街京の花街[16][17][18]神戸の花街東京の花街[19]新潟の花街それぞれ各地で取り組みがなされている。[20][21][22]

(以下、具体例)

神奈川県鎌倉市

神奈川県鎌倉市にある月影亭は深川芸者が所有する日本式旅館であり、誰でも宿泊が可能である。
山形県酒田市

山形県酒田市では、1990年に「港都振興」を設立した。 ⇒[1]
新潟県新潟市
新潟芸者の舞

新潟市には、中心市街地の中央区古町を活動拠点とする古町芸妓が存在する。

古町芸妓は、最盛期には400人ほどいたが、現在では20数名程。実働は10数名となっている。後継者がいないため年々人数が減少していることから、1987年(昭和62年)に芸妓出入りの料理屋や財界人の出資により「柳都振興株式会社」が設立された。


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