1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると洋画の輸入が滞り、邦画で穴を埋めようにもフィルムの確保が容易ではなく、苦肉の策として映画の合間に漫才などの実演を入れるようになった。こうした流れに新興キネマは、吉本興業からミスワカナ・玉松一郎、香島ラッキー・御園セブン、平和ラッパ・日佐丸などの人気芸人を数倍の報酬を条件に移籍させた。穴埋めの映画を製作するよりも芸人の賃金の方が安価であったためである。これを機に落語家などの引き抜きも盛んになり[3]戦前のごく一時期ではあったが芸人の収入増加の機会となった。
関連項目
芸妓(芸者)
芸能人
エンターテイナー
役者
お笑いタレント
舞台芸術
大道芸
ストリートパフォーマンス
ストリートミュージシャン
旅芸人
脚注^ 芸人(げいにん)とは - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、ブリタニカ・ジャパン、2014年。(コトバンク)
^ 当時の芸人の氏名は西村隼太郎編『諸芸人名録』丸家善七 明治8年が国立国会図書館によりインターネット上で公開されている
^ 新興が吉本から人気者引き抜き『大阪毎日新聞』昭和14年3月31日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p741 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)