芸予地震
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芸予地震の震央である安芸灘より南西部の伊予灘?豊後水道にかけての領域で発生した、フィリピン海プレートスラブ内地震と推定されている代表的な地震は以下の通り。

発生日名称震央規模特記
1854年(安政元年)
12月26日豊予海峡地震北緯33.2度
東経132.2度M7.3-7.5当該リンク先参照
1968年8月6日豊後水道の地震北緯33.3度
東経132.4度M6.6
2014年3月14日伊予灘地震北緯33.7度
東経131.9度M6.2当該リンク先参照
2024年4月17日豊後水道地震北緯33.2度
東経132.4度M6.6当該リンク先参照

1905年芸予地震

芸予地震

地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日1905年(明治38年)6月2日[5][10]
発生時刻14時39分(JST[5][10]
震央 日本 安芸灘
北緯34.1度
東経132.5度[5][10]
規模   マグニチュード (M)[1][5][10]7..mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄4 [15]
最大震度   震度5:?6
広島県呉市
同県広島市
愛媛県松山市[1][5]
地震の種類スラブ内地震
被害
被害地域広島県、愛媛県を中心とする中国・四国地方

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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概要

1905年(明治38年)6月2日 14時39分(日本標準時)に発生した地震の震源は倉橋島の南[5]マグニチュードは71⁄4[15] から7.3[16] と推定されている。東は東京・西は長崎と広範囲で揺れたが、大きな被害は広島湾岸と伊予灘に面した地域と局所的なものに留まった[17]

この本震の前々年から前震が多発しており、1903年(明治36年)に9回、1904年(明治37年)に3回、そして1905年1月から5月の間に3回と続き、6月の本震となった[10]。その後も余震が続き、中でも同年同日19時55分(緯度34.0度・経度132.5度・M6.0)、同年12月8日12時08分(緯度34.1度・経度132.6度・M6.1)、同年12月8日13時25分(緯度34.0度・経度132.4度・M6.2)が代表的なものとなった[10]

1905年当時はまだプレートテクトニクス理論が提唱されていない状況下で、震災予防調査会のメンバーは地震の原因についていくつか考察している。今村明恒は震源地付近の海の状況から海底下の断層による地震(断層地震説)ではない別の原因の可能性を[18]小藤文次郎中央構造線断層帯の影響によるものとして原因を模索している[19]

また、1900年頃の震度階の強震をそのまま震度5と読み替えることにより震度5の範囲が異常に大きくなり、本地震のマグニチュードを過大評価していた。強震の範囲の大部分が実際には震度4と考えた方が良く、そうするとM6.6となる。また、地震計に記録された最大振幅からマグニチュードを求めるとM6.7となり、周期60秒の大森式地震計の記録からMw6.8と求められた。これはほぼ2001年と同規模である。大森式地震計の記録は横ずれ成分をもつ正断層タイプの地震であることを支持し、2001年とほぼ同じメカニズムであると推定された[14]

調査および研究資料は比較的少ない[5]。1905年に震災予防調査会がまとめた報告書では、震源地付近に存在した呉鎮守府(呉鎮)において被害状況はいくつか記載されている[20][21]。報道機関は、当時の直前の日露戦争での日本海海戦勝利を重視し、軍港を襲った地震である芸予地震についてはあまり報道しなかった[8][22]。また海軍工廠は機密保持体制にあった[22]
地震の記録

当時震央付近で機械的なデータが取れる地点として、文部省広島測候所松山測候所と呉鎮守府測器庫の3箇所あったが、

広島測候所:計器を購入中だったためデータなし

松山測候所:データはとれたが震源から遠かった。

呉鎮守府測器庫:普通地震計を倉庫にしまっていた。

といった要因から良質なデータが取れなかった[23]ほか、強震計も置いていなかった[23]。ただ呉については観測者の目視により正確な発震時刻が記録されており、これが震央特定の重要なデータとなった[24]。東京大学地震学教室(現、東京大学地震研究所)に大森式地震計による観測記録が残されている。
各地の震度

以下、弱震(現在の震度2-3)以下を除いた当時の震度[25]

震度市町村
広島
松山境港高知下関室戸岬徳島浜田味野地区福岡多度津新居浜熊本
稍強岡山別子

被害1905年芸予地震の際に倒壊した旧部材を用いて再建され現存する呉鎮守府司令長官官舎[26]。後の2001年芸予地震でも建物が傾斜した。

顕著な被害は広島県呉市・広島市と愛媛県三津浜(現松山市)・郡中(現伊予市)の沿岸部に集中した[10]。これは江戸時代以降、干拓埋立によりできた軟弱地盤の上に建てられた建築物の倒壊より被害を出したためであり、特に広島市中心部は太田川下流三角州沖積平野に形成された街であるため、その弱い地盤が被害を拡大させた[23][27]。一方で震源地付近は海であり、周辺の島々である倉橋・能美島などはほとんどが花崗岩の固い地盤であったため、地震の規模に対して被害は軽かった[23]


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