芳村真理
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1990年頃までは「知ってるつもり?!」、「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」(いずれも日本テレビ)などにもゲスト出演していたが、1992年、これも長く司会を務めたTBS「料理天国」終了と同時に、司会業等の主だった芸能活動は事実上セミリタイアとなり、その後メディアへは単発的なゲスト出演がメインとなる。

その後、1996年には森林の育成などをテーマとする「MORI MORIネットワーク」を立ちあげ副代表に就任、他にも(株)ミキモト取締役(現在は同社顧問)や自身の経営するコスメティック・カウンセリング会社の取締役(ズムズム株式会社など)、林野庁林政審議会委員(2001年 - 2006年)や(財)福澤記念森林会理事など政府系機関や財団・NPO法人の委員・理事を務めるなど経営・文化活動が中心的な活動となっている。特に「MORI MORIネットワーク」、林政委員会委員としての活動は活発的であり、熱帯林問題が深刻となっているタスマニアなど環境問題を抱えている外国への視察訪問や各地での植林啓発活動にも深く関わっている。

「料理天国」終了後は「午後は○○おもいッきりテレビ」に不定期にコメンテーターとして出演していた。2000年代後半以降は、年に数回登場する程に減少、テレビ界での活動を極力控えて、1年の大半をプライベートや植林・環境保護の仕事の関係で海外や地方で過ごす毎日を過ごしている。モデル時代に数多く表紙を飾った「婦人画報」で「真理の真理(まりのしんり)」というタイトルの連載を執筆し、ファッションについての様々な一家言を述べている。

2014年の定期健診で動脈瘤があることが判明。早期の発見だったため大事には至っていないが、この出来事で「残りの人生を大切にしたい」との思いが芽生えたという。2015年頃からはテレビ番組のゲストとして、往年のレギュラー番組にまつわる秘話を披露することや、かつて番組で共演していた歌手・司会者と再会することが相次いでいる。2017年2月13日には、TBS系列でおよそ4時間にわたって放送された『歌のゴールデンヒット?オリコン1位の50年間?』(堺正章司会の特別番組、第1弾)へスペシャルゲストとして出演。『夜のゴールデンショー』以来47年振りに、堺とのコンビで一部のコーナーの司会進行を担当した[3]

2018年1月3日生放送のBS朝日人生、歌がある」の生放送!新春5時間スペシャルもて特別出演しサブ司会という立場で田原俊彦と共に久々の生放送司会を担当した[4]。生放送中に数回の衣裳チェンジもお披露目した。この番組の演出・プロデューサーは夜ヒット時代の疋田拓である。

エピソード
家庭関連・モデル時代

1男3女兄妹の長女。女優の
吉村実子は実の妹(三女。なお、真理、実子の間にいた次女は30代で夭逝している)、彼女と結婚していた俳優の石立鉄男は義弟に当たる。前夫のミッキー・カーチスとの間に息子が1人おり(元歌手の大伴修)、修の娘(芳村の孫)は歌手のKaya(大伴花矢)である。大伴昭との間に子供はいない。

実兄は東京新聞社会部の記者として長年、同新聞の学芸欄(学術・芸能関係の記事)の編集に従事していた。

ミニスカートを日本の女性タレントで最初に着た人物との説がある(芳村と親交のある野際陽子説もある)[要出典]。

女優時代

女優時代には
松竹に在籍したが、専属契約ではなかったため、テレビドラマの世界にも進出。[5]特に1960年放送の生放送ドラマ「私がえらんだ人」(日本テレビ)では、モデル出身という経歴を活かした早着替えの特技を披露し、強烈な個性を発揮。若手の個性派女優として注目を集めるようになった。

カーチスとの離婚後、正式に松竹を離れて他社製作の映画にも進出。離婚早々に出演した東映製作の『くノ一忍法』(1964年)ではセミヌード姿や名和宏らを相手に激しい濡れ場にも挑戦、新境地を開拓し、以後はテレビドラマを中心に主に悪女役を多数好演する。しかし、当人の希望している役柄とはあまりに隔たりがあったこともあり、次第に「女優という仕事は肌に合わない」と痛感。『小川宏ショー』の司会抜擢を機に、女優業廃業を決意した。

小川宏ショー

『小川宏ショー』の衣装選びは、全て芳村の全権に委ねる形で行われていた。これはモデル出身という彼女の経歴を配慮してのものであり、時に、
シャネルミニスカート姿で登場するなど、平日朝のワイドショーの司会者らしからぬシックな装いも臆することなく披露した。これに対して、彼女より年代が上の主婦層からは批判的な意見が強かったが、逆に彼女と同年代、またはそれよりも下の女性視聴者には受けが良く、番組人気の拡大に貢献する格好となった。

夜のヒットスタジオ

前田武彦と共に『夜のヒットスタジオ』の初代司会に抜擢された理由は、番組がスタートする約1年前に放送されたニッポン放送のラジオ番組「男性対女性」のなかで展開された二人のやり取りを気に入った構成作家の塚田茂が、番組の初代プロデューサー・伊藤昭に推薦したためである[6]。しかし、芳村も前田も大のジャズファンではあるものの歌謡曲に対する造詣は皆無に等しく、「歌謡番組の司会者」としてオファーをかけても断られるのが関の山だろうと考えた伊藤は、あえて「ジャズ番組の司会者」と偽って、「夜ヒット」への出演を依頼。「大好きなジャズをたくさん聞けるのなら」と芳村は二つ返事で仕事を引き受けたが、いざ初回のリハーサルに参加するや、当日出演するゲストの顔ぶれが歌謡曲の分野で活躍する歌手ばかりで「(伊藤に)騙された」と酷く落胆し、一度はすぐにでも番組降板を申し出ようとも考えていたと、芳村は自著[7]で回顧している。

『夜ヒット』などの生放送の番組を務める時には必ずといっていいほど、台本(または進行表やメモ書き)を携帯するスタイルを採っていた。

『夜ヒット』での共演が縁で1987年には夫と共に古舘伊知郎の結婚式の仲人を務めている。婚約会見のとき、すでに古舘の妻は一人目の子供を身ごもっており、腹部が膨らんでいることを記者が質問した際、芳村は「こういう形のドレスなんです」と述べ、妻を庇った[8]

古舘の司会初回の際、相当の緊張状態に達していた古舘をフォローするため、芳村は「時間が経てば終わるのよ」という言葉をかけた。古舘はこの言葉をかけられて、自然と気が楽になったと述べている[8]

光GENJIが番組初出演の挨拶をしに芳村の楽屋を訪れた際、「ちわーす。」という軽い挨拶だけで楽屋を後にしてしまったという。彼ら以外にも、担当末期の頃になると、これまでの芸能界・テレビ界のルールや仕来りに捉われないスタンスで周囲に振舞う歌手やスタッフが増えてきており、彼らの自由な立ち居振舞いを通じて「もうここには私の居場所はない」と若い歌手・スタッフとのジェネレーションギャップを強く痛感。このことが、番組を勇退する決意を固めた最大の要因であったとされる[5]

番組司会当時、その日のゲスト歌手に声をかけて、本番終了後に食事をご馳走することも多かったという。特に複数回にわたって、芳村の行きつけのワインバーで酒席を共にしたという西城秀樹未唯mie(元ピンク・レディー)は、バーでの芳村の立ち振る舞いから「本当の意味での大人の社交術を(芳村から)教わった」と後年、感謝の念を述べている[9][出典無効]。

当日の本番で身に付ける衣装のコーディネートに困っている女性歌手などには、頻繁にアドバイスを送ったり、特別にスタイリストを買って出ることもあったという。1987年9月9日放送では、同月のマンスリーゲストであった八代亜紀とのコラボレーション企画として、芳村による衣装コーディネート企画が正式な番組イベントの一環として組まれたこともある。

上記の八代、西城、未唯mieのほか、番組担当当時には梓みちよアン・ルイス小柳ルミ子高田みづえ田原俊彦近藤真彦中森明菜郷ひろみ石野真子布施明薬丸裕英(元シブがき隊)らとも親しい関係にあった。特に高田に関しては、彼女の結婚披露宴の際に新婦側の来賓として祝辞を行っているほか、芳村が番組を勇退した際には、夫の若嶋津(現・荒磯親方)と共に彼女に花束を渡すために、芸能界引退以来約3年ぶりに公の場に登場するなど殊に深い親交を持っていた。

その他

他者が芳村を呼ぶ際、「芳村さん」よりも「真理さん」と呼ぶことが多い。ただし、「料理天国」で長年相棒を務めた西川きよしは自分よりも10歳以上年齢が上であることや芸能生活も長いことなどをふくめ芸人の間柄でよく使われる「(芳村の)お姉さん」という呼称で芳村のことを呼んでいた。

1988年4月28日放送の「笑っていいとも!」でテレフォンショッキングのゲストとして登場した際、その時着用していたハイヒールが床の隙間に挟まってしまい身動きが取れなくなってしまうというハプニングが起きたことがある[注釈 2]

戦時中は兄とともに宮城県飯野川町(現・石巻市)に疎開。豊かな宮城の自然に囲まれながら小学生時代を過ごした。その時の経験が「MORI MORIネットワーク」設立を思い立った契機となっているという[10]

出演
テレビ司会

芳村は「夜ヒット」を初め「FNS歌謡祭'77?'86グランプリ」「新春かくし芸大会」というフジテレビの年末年始の一大イベントといえる大型番組を長年担当したり、「小川宏ショー」「3時のあなた」というフジテレビワイドショー番組の源流となっている2番組のホステス役も務める。


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