花隈町
町丁
花隈公園
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度41分18秒 東経135度10分52秒 / 北緯34.68833度 東経135.18111度 / 34.68833; 135.18111
国 日本
都道府県 兵庫県
市町村 神戸市
区中央区
人口(2021年(令和3年)12月31日現在)[1]
? 合計3,009人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号650-0013[2]
市外局番078 (神戸MA)[3]
ナンバープレート神戸
花隈町(はなくまちょう)は兵庫県神戸市中央区の町名。住居表示実施済区域。丁番の設定がない単独町名である。郵便番号650-0013[2]。 中央区の南西部、旧生田区域中央部に位置し、東・北・西は下山手通、東?南は北長狭通に接する。中央区西部の市街地中寄り、花隈城のあった辺り。神戸港の発展に伴い高級料亭が立ち並び花街として有名になった[4]。飲食店・集合住宅が立ち並ぶ商業地域。 花熊・鼻熊・華熊とも書き、「往昔は土東崕を噛み」といわれ、海に面した小高い丘であった[5]。台地の端(ハナ)の一段と高いところ(クマ)からついたという説[5]がある一方、神をクマというところから神内(くまうち)に対し神社領のはずれという意味だという説もある(西摂大観 江戸時代から明治5年(1872年)まで花熊村。同村は八部郡のうちで、はじめ幕府領、元和元年(1615年)から大和国小泉藩領、明和6年(1769年)から再び幕府領[4]。
地理
歴史
地名の由来
沿革
中世以前
平清盛が祀ったという兵庫七弁天の一つ花隈弁天があったが、花熊城を築く際に生田神社に移し、天明年間宇治川河口の弁天浜に移したという[4]。
戦国時代に織田信長方の城として花熊城が築かれ、天正7年(1579年)12月信長に叛いた荒木村重が入城し、本願寺派の拠点のひとつとして池田恒興ら信長方の攻囲軍と戦闘、天正8年(1580年)本願寺と信長の和議が成立して同城は破却された。
町内の福徳寺は建久年間(1190年?1198年)に九条関白兼実により建立、厭求上人により開基されたと伝えられ、当初平野にあったが、天正年間(1573年?1593年)に花熊に移ったと社伝にある。住民も一緒に移り住み戦いで荒れた村を開拓したという伝説がある[5]。
池田家文書に伝わる花熊城付近図(岡山大学蔵)は築城の折の町割りと見られており、城の西側に塀に囲まれた東西40間・南北95間の一区画がありその内部が4町に区切られ「花熊町」と記入されている[4]。
花熊村