1536年(天文5年)5月、当主今川氏輝の急死により勃発した、栴岳承芳(後の今川義元)と兄・玄広恵探による家督争い(花倉の乱)において、玄広恵探派が方ノ上城(焼津市)とともに花倉城を拠点とし抵抗したが、栴岳承芳派の総攻撃によって同年6月10日(新暦6月28日)に落城。玄広恵探は敗走の後自害し、乱の終結を決定付けた。この一連の戦いでは岡部親綱が方ノ上城と当城(史料上は「葉梨城」)を落とす活躍を見せ、今川義元より感状を送られたという[5]。
画像
本曲輪-二の曲輪間の堀切。
城跡最高所の本曲輪。
脚注^ ⇒「市指定文化財一覧表」藤枝市公式HP
^ 椿原 2009 pp.110
^ 椿原 2009 pp.111
^ 椿原 2009 pp.112
^ 椿原 2009 pp.110-111
参考文献
椿原靖弘 2009「花倉城」『静岡の山城ベスト50を歩く』(加藤理文・中井均 編) サンライズ出版 pp.110-113
関連項目
花倉の乱