平安末期、ある女人が情夫の殿上人へ捧げた物語がある。その殿上人も、「わたし」の遠い祖先の1人だった。女人には幼なじみの寺の坊主がいたが、この男は煩悩が捨てきれず、彼女にたびたび手紙をよこした。彼女は殿上人のつれなさや当てつけから、その幼なじみの坊主へ心を傾ける。そんな経緯から女人の物語は綴られていた。修行僧の坊主は女人と都を出奔し、ふるさとの紀伊にやって来た。しかし女はひとり海辺に立ってから気が変り、密かに男から逃れて京の都へ戻り尼になった。女は、「海への怖れは憧れの変形ではあるまいか」などと書き記していた。
「わたし」は1枚の写真を見る。それは「わたし」の祖母の叔母である。彼女は幼い頃から海に憧れていた。そして、いつの頃からか彼女の死んだ兄が言っていた「海なんて、どこまで行ったってありはしないのだ。たとい海へ行ったところでないかもしれぬ」という言葉の意味がわかるようにもなってきたが、海を見ることは変らずに好きだった。彼女は伯爵である夫が死んだのち、或る豪商に求められ再婚した。南の海で仕事をしていた豪商は、東京で住いを営みたいと考えたが、彼女の強い希望で夫婦は南の海の島で暮らすことになった。しかし、島での生活に彼女の憧れは満たされることなく、まもなくこの夫と別れて帰国した。そして彼女は純和風な家を建て死ぬまでの40年間、独り身の尼のように暮した。
老いた彼女は客人(まろうど、稀人)が来ると庭に案内した。竹林を抜けた高台に立つと、そこから海も見えた。毅然と立つ白髪の彼女の顔は涙ぐんでいるのか祈っているのか判らず、客人は、樫の高みが風にさあーっと揺れた瞬間に覗かれた眩ゆく白い空を見た。その時、客人は故知らぬ不安で、「死にとなり合わせ」のような感覚を味わったかもしれない。それは、回転する独楽(こま)が極まって澄むような静謐、生(いのち)の極み、いわば「死に似た静謐」と隣り合わせに感じたかもしれない。 執筆当時16歳であった平岡公威(三島由紀夫の本名)は、リルケや日本浪曼派の影響を受けており、『花ざかりの森』の作風にも、それが表れている[5][12]。 『花ざかりの森』は、「序の巻」「その一」「その二」「その三(上)」「その三(下)」の5章から成っているが、「序の巻」は、いわば『置浄瑠璃』のようなもので、荘重で〈全編の意味の解明といふやうな効果〉を意図し[5]、「その一」の章は現代、「その二」は準古代(中世)、「その三」は古代と近代という三部に分かれ、〈主人公の系図(憧れの系図)〉に基づいて構成されていると、当時の平岡公威は自作を説明している[5]。 また、〈古代、中世、近代、現代の照応の為、「海」をライト・モチイフに使ひ、「蜂」を血統の栄枯〉にやや関係させているとし[5]、「その一」の後段で、この作品が〈「貴族的なるもの」への復古と、それの「あり方」を示すものであること〉を主張させていると説明している[5]。 なお、28歳時に三島は当時の自身を振り返り、〈自分の小説家としての生ひ立ちが、小説家の目ざめよりもはるかに早く、物語作者の目ざめからはじまつてゐた〉としている[13]。「花ざかりの森」の時代の私は、あの苛酷な戦時中に在りながら、いはばプルウストの初期短篇集の題名のやうな「愉しみの日々」の生活を送つてゐた。決して物質的にではなく、単に精神的にである。私は詩と小説をちやんぽんに書き、そのどちらにも厳しさを求めず、微温的な、あるひは人工的な詩と物語を混同し、まだもちろん、シモンズのあの怖ろしい言葉、「およそ少量の詩才ほど作家を毒するものはない」(ドオデエ論)といふ言葉は知らずにゐた。 当時、学習院中等科に通っていた平岡公威は文芸部に所属し、学内の『輔仁会雑誌』に詩や小説を載せ、その作品群は先輩(東文彦、坊城俊民)からも注目され、一目置かれていた存在であった[14][15]。
作風・構成
昼も夜も、私は浮遊してゐた。当時流行のアルバイト・ディーンストで、鍬をふりあげてゐるあひだも、私は浮遊してゐた。物語を作り出し、それを紙上に綴ることの快楽。私が人生で最初におぼえたのはこの快楽であると云つていい。文学の苦味を知るずつと以前に、これほどその甘味に味を占めてゐたことは、よかれあしかれ、爾後、私といふ人間を規定した。 ? 三島由紀夫「あとがき――『花ざかりの森』」(『三島由紀夫作品集4』)
処女出版の背景
ペンネーム「三島由紀夫」