第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し[26]、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した[注釈 4]。事実、私は憤怒に燃えた。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのやうな、ひねこびた熱い強烈な愛情をずつと奥底に感じた。ちがふ。ちがふと首をふつたが、その、冷く装うてはゐるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかつかつとほてらせた。さうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。(中略)ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ。 ? 太宰治「川端康成へ」[28]
この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし[29]、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べている[29]が、プライベートに関して人格攻撃をしたこと自体は後に謝罪した。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり[30]、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった[27]。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている[31][27]。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。また、このとき太宰は『新潮』の誌面で、あたかも佐藤との間で受賞の密約を交わしていたかのようなアピールをしているが、佐藤には即座に否定されている。
受賞者一覧詳細は「芥川賞の受賞者一覧」を参照
1930年代
第1回(1935年上半期) - 石川達三「蒼氓」
第2回(1935年下半期) - 該当作品なし(二・二六事件のため審査中止)
第3回(1936年上半期) - 小田嶽夫「城外」、鶴田知也「コシャマイン記」
第4回(1936年下半期) - 石川淳「普賢」、冨澤有爲男「地中海」
第5回(1937年上半期) - 尾崎一雄「暢気眼鏡」他
第6回(1937年下半期) - 火野葦平「糞尿譚」
第7回(1938年上半期) - 中山義秀「厚物咲」
第8回(1938年下半期) - 中里恒子「乗合馬車」他
第9回(1939年上半期) - 半田義之「鶏騒動」、長谷健「あさくさの子供」
第10回(1939年下半期) - 寒川光太郎「密獵者」
1940年代
第11回(1940年上半期) - 高木卓「歌と門の盾」(受賞辞退)
第12回(1940年下半期) - 櫻田常久「平賀源内」
第13回(1941年上半期) - 多田裕計「長江デルタ」
第14回(1941年下半期) - 芝木好子「青果の市」
第15回(1942年上半期) - 該当作品なし
第16回(1942年下半期) - 倉光俊夫「連絡員」
第17回(1943年上半期) - 石塚喜久三「纏足の頃」
第18回(1943年下半期) - 東野邊薫「和紙」
第19回(1944年上半期) - 八木義徳「劉廣福」、小尾十三「登攀」
第20回(1944年下半期) - 清水基吉「雁立」
(第二次世界大戦のため中断)
第21回(1949年上半期) - 由起しげ子「本の話」、小谷剛「確証」
第22回(1949年下半期) - 井上靖「闘牛」
1950年代
第23回(1950年上半期) - 辻亮一「異邦人」
第24回(1950年下半期) - 該当作品なし
第25回(1951年上半期) - 安部公房「壁 S・カルマ氏の犯罪」、石川利光「春の草」他
第26回(1951年下半期) - 堀田善衛「広場の孤独」「漢奸」その他
第27回(1952年上半期) - 該当作品なし
第28回(1952年下半期) - 五味康祐「喪神」、松本清張「或る『小倉日記』伝」
第29回(1953年上半期) - 安岡章太郎「悪い仲間・陰気な愉しみ」
第30回(1953年下半期) - 該当作品なし
第31回(1954年上半期) - 吉行淳之介「驟雨」その他
第32回(1954年下半期) - 小島信夫「アメリカン・スクール」、庄野潤三「プールサイド小景」
第33回(1955年上半期) - 遠藤周作「白い人」
第34回(1955年下半期) - 石原慎太郎「太陽の季節」
第35回(1956年上半期) - 近藤啓太郎「海人舟」
第36回(1956年下半期) - 該当作品なし
第37回(1957年上半期) - 菊村到「硫黄島」
第38回(1957年下半期) - 開高健「裸の王様」
第39回(1958年上半期) - 大江健三郎「飼育」
第40回(1958年下半期) - 該当作品なし
第41回(1959年上半期) - 斯波四郎「山塔」
第42回(1959年下半期) - 該当作品なし
1960年代
第43回(1960年上半期) - 北杜夫「夜と霧の隅で」
第44回(1960年下半期) - 三浦哲郎「忍ぶ川」
第45回(1961年上半期) - 該当作品なし
第46回(1961年下半期) - 宇能鴻一郎「鯨神」
第47回(1962年上半期) - 川村晃「美談の出発」
第48回(1962年下半期) - 該当作品なし
第49回(1963年上半期) - 後藤紀一「少年の橋」、河野多惠子「蟹」
第50回(1963年下半期) - 田辺聖子「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」
第51回(1964年上半期) - 柴田翔「されどわれらが日々──」
第52回(1964年下半期) - 該当作品なし
第53回(1965年上半期) - 津村節子「玩具」
第54回(1965年下半期) - 高井有一「北の河」
第55回(1966年上半期) - 該当作品なし